コーチの美学

2003年1月01日(水)

あけましておめでとうございます。

12月29日(日)に波崎から東京にもどって、きて、
12月30日(月)は、自分が使っている携帯はauなのだが、それがデジタルから、cdmaoneとかいう方式に変更する(理由は、良く理解できないのだが、最後に企業からきた釈明書には、デジタル方式を想定して、設備投資した、企業内のシステムを維持するのに、まったく足りない、顧客数であるがゆえというような言い方をしている、だからこのcdmaone方式に変更という、ように読めるのだが、ではcdmaoneとは何かも、理解の外にある)ので、手持ちの、デジタルセルラーを、交換に行った。

そののち、神宮外苑の外周コースを走る。

夕方は、昔の神奈川国体選抜のOBが「飯を食いましょう」というので、赤坂の韓国式食堂(しったん)に行った。
いい年こいた「おじ」たちが、血管ぶちきれんばかりに、けずりあいをするサッカーをしていて、例えば、朝鮮蹴球団のOBのチームはいまだにアップも「規律を守ってやっているそうだ」、「がんほ」なんて、なつかしい、名前もでてきた、このがんほ、というのはすごいフォワードであって、知る人ぞ、知るという選手であったが、今も日本人のおじたちを、あざむいてプレイしているとか。

良いか悪いかではなく、サッカーの現役をやめて「指導者や、サッカーの行政の方面に行く人と」そうではなく「いつまでもグラウンドにたちたい」と思う人に分かれるようだ。
指導(=コーチ)のほうに行く人は、当然に、今指導しているチームあるいは、子供たちに、責任というものを感じる、感性をもつがゆえに指導者であって、土曜・日曜、子供たちのために時間を使う(ことがあたりまえだと思っている)

12月31日(火)

この日は、同じランニング・コースでは、あきるので、皇居の周りを走った。
天皇陛下は年明けに、前立腺腫瘍のオペを受けるわけだが、そのことがあまり大きなトピックにはなっていない、これが胃癌だ肝臓癌だといえば、大騒ぎであろう、すなわち生き
死にのわかれめの、大手術に臨んで、という状況と受け止められるはずが、「悪性でもないし、転移も認められない」ということで、楽観的なコメントになっているからである。

人は、だれも字面から、その先の意味を受けとれるのか、受け取れないのか、ということが一番肝要なことではないだろうか?

だから昨日電話を交換したときもcdmaone方式という字面、から、相川さん、何も受けとめられないから、黙って、交換におうじたところで、auが、顧客に悪いことを「しかけてくるはずもない」だろうということで、うまくいっている、ふしがある。

ところが、むろん浅学もよいところではあるものの、医療の現場にいたことがあるので、字面の先に、あるいろいろな意味を読み取れる、すると、「言葉ではなく、メカニズム」ということに興味が行くわけである。「良性の腫瘍」という言葉が、人に与える、安心してもよいのかな、という感情はよくわかる、しかし「腫瘍」ということが、何かを考えれば、腫瘍は腫瘍で、そのメカニズムに思いをはせれば、簡単なことではないと言う程度のことは、わかる。

こんなことがあった。

12月の試験あけの練習に、選手のひとりが、学生服のままやってきて、着替え様とはしない、なにごとかと思っていたら、よってきて簡単に言えば、彼の足底にメラノーマ(血液の腫瘍)ができて、入院、オペ「だから、練習を休ませてください」と言ってきた。

若い選手に必要以上のプレッシャーをかけることもないから、ただ「そのオペ、けっして、簡単なことではないということは、」「言って」入院する病院を尋ねた。

医者というプロに依存するしかない、状況だから、自分にやれることといえば、「どこでケアを受けるのかを聞くしかない」というわけだ。

そのうえで「練習を休むのは当然だし(軽く考えてはだめ)」と、私が答えると、また彼が、そこが若くて良い所だが「退院しても、元に戻るまで時間がかかるので、みんなに(サッカーで)追いつくことができるかどうか、わからない」「だから、どうしたらよいでしょうか?」と訊くわけである(むろんこのメラノーマのこわさを深くはわかっていないので)。

こういうとき、自分は「うーん」である。

自分も含めて、若いころ「何もわかってはいなかった」「わかっていて、生きて来られたわけではなく」偶然やら幸運やら、周囲の人のサポートにめぐまれたからであろう、「今でも、なにもわかってはいない」

だから、この高校生がひょっとして、命のやりとりを「これからしにいく」という、時に「なおってどうやって、遅れた部分をサッカーでとりかえすか」にだけ意識が「いっている」というのも、よくわかる。

「心配するな、まずは病気をなおせ」というのが精一杯であった。

大晦日、寝ようと思ったら、朝まで生テレビをやっていたので、結局見てしまった。
他人が「どのように物事を考えているのか」を「わかるのは、おもしろい」

この日のテーマは「アメリカの対イラク戦争」「北朝鮮の核開発」「日本のナショナリズム」とかいうところだろうか?それらについて、いろいろな人が、またいろいろなことを言うのだが、その言う所の良し悪しは「置いて」さー、いざ大事になったときに、今ここで言っている人たちは、「どうするのか?」そういうことだけが気にかかる。

つまりは「言う所」と「行う所」である、「言う所」を「事に当って、行うのか?」という興味もあるが、それは彼らのような、言論人にしてみれば「大事」な状況が来なければ、われわれにはわからない。

戦争という大事が来るか、来ないか、わからないので「言っているのではないか」というやつもいる、大事がこない、から、安全な、ところで、我々も口で言い散らしている、というそういうこともあるのが人生だろう。

言う所を、行う、という1点、それだけが、コーチの美学だろう
(この項終わり)