現場コーチの仕事
2005年1月02日(月)
暮れは、波崎にいた。
静学と0-1、良い試合相手だが、井田先生「おんたいすぎて」波崎なんかいられないのか?挨拶にいこうかとベンチ見たら、いない。
井田先生とはその昔、千葉の検見川で同じコーチングスクール卒業生、慶応でて、静岡銀行就職してそこやめて、コーチになろうというそういうひとである。
実地コーチングでどこかの学生ぶんなぐって、平木主任コーチに怒られていた。
桐蔭と一緒に何年か前、静岡遠征にいって、静学と練習試合やったあと、静岡のナンバー1クラブに招待されて『父ちゃん、焼津の漁師』だというホステスさんに酒のまされてなんて日々もあったが。
静学、ドリブル過剰でずっとやってきているので、そういうイメージを選手に伝えたが、全然そういうことなくて、「ふつー」であった。
ただ前半は静学の個人技いかした、ボールポゼッションの戦術に、日学、「どこで、どうボールとるか?」さっぱり機能しないので、後半、頭にきて、「静学のボールのまわしかた」をどうやって、とめるかは大人の口出しをした。
口出しなぜしたかというか、口出しするのがコーチでしょ?って思うひともいるだろうが、「今」日学は、守備のテーマは「組織ではなくて」いかに「個人の挑みかかるような、守備の迫力をつけなさい」ということにしてある。
コーチならわかるだろうが、だから「試合でも、カバーいなくても」ボールチャレンジ「行って」なおかつそこで「いきおい余って、相手とすれちがっても」「かまわない」と申し渡してある。当然そこで0-1になるわけだが、そんなことはどうでもよいと。
そういうように、最初から、洗練されたことでなく、0か1かみたいに始めて行く。
そうはしないひともいるわけだが、わかりやすくはある。
別な言い方すれば、「相手が攻撃で鋭い」「だからひこうか」というそういうまず、弱い気持ちを「捨てろ」というか、そこからはいりたいわけである。
そうしたら当然今の準備段階では、『行け行け』でOK
結果は問わない。
元気を引出す、ということだ。
あるいは荒ぶるこころ(がないので、それを尊重したい、わけだ)
母親が聞いたら卒倒するような、そういう子供にしたいわけだ(他人の子だけど)
だから静学の(攻撃ではなくて)ボールをなくさないという戦術でも、そこでこちらの個人の力量で、ボールを奪える、状態ということを見たかったのだが、現実は、そうではなくて、くるくる「まわされた」
それで、コーチは頭にきて、「組織」をどうつくるかハーフタイムで言って、それでうまくいくわけもないが、ショートでつなぐ、静学の局地戦でのパスのつなぎに、どうしてもパスカット「1対1でできなければ」こちら2の2対1で行け、で、どこで行くかはサッカーマンの感性にまかせるとしたら、後半、静学、なんにもできなくなってしまって、静学のコーチが、がなりはじめたのだから、そこで考えることは、やはり高校サッカーむずかしいね、と、つまり、自分が静学のコーチなら、ボールポゼッション、否定はしない、しかしポゼッション「しているだけでは」ゴール奪えないのだから、さー「どうするか?」そこまでチームに、くりこまないと、「きれいなサッカーで」「なおかつ、勝つ」というところに行かないんだよね、ということである。
まー静学なんかどうでもいいのだが。
どこでも、サッカーを考える「たね」はあるので。
ところで、静学戦では、こちらのチーム「さー、どういう構成が最適か?」まだ不明で、そのあとの試合もいろいろ試して、27日ぐらいには、1番から10番目ぐらいが、すくなくとも、自分の頭のなかでは、かたちになって、28日の午前中、どこかのチーム(名前忘れたが)とやって、3-0で「中身の良いゲーム」になったので、そこで波崎を離れて、東京に、もどった。
28日の夜、車を捨てて、茅ヶ崎に行く。
サッカー苦労人の会とかいうタイトルで、神奈川のサッカー指導者のひとたちと歓談。
酔っ払って、溜池山王までたどりついた。
来年(今年)のテーマを、こうした。
1) 相手からボールをとる、だけでは充分ではない、いかに相手から、とった瞬間に、どう表現するか、破壊的にとるか?そうでないと守→攻にならない、だから古典にもどるのだ、あたりの強さ、組織守備に行くか行かぬか、そこはどうでもよいが、ただとっただけでは、その次の攻撃がうまくいかないということ
2) つないで(接近)それから展開この言い方は、早稲田ラグビーの言い方をコピーしかし有効
3) 展開してなお、そこで1対1ではなく、2対1だろう、つまりここでも接近→展開→連続というラグビーの理論との近似というか、表現を借りるわけだ。
4) キープと突破のきりわけのぎりぎりさ
今年はこれでいくしかないねと、波崎で、何度も何度も、おのれの発想にあやまりないか?自問自答である。
自問自答のためには、波崎全く問題ない。
ネオンも輝かない、風車まわって風力発電。
いぬはつながれていないで、生きている。
天皇杯はNHK電波障害ではいらない。
だからVerdyの試合内容もわからなかった。
政治的理由?身過ぎ世過ぎのうまいへた?
木村和司だ、井原だがサッカー解説のあたりまえさに腹がたったけれど、それは北澤だ武田が高校サッカー解説しているのも同じかな?
彼らの眼前で起きていることを彼らは「語れない」しかし語れない、ということを一般視聴者はむろんわからない。
わからないからなぜ、高校サッカーでも「こっちが勝っていて、あっちが負けて行くのか、」そこがわからない。
東京代表はあっというまに、撃沈されてしまった。
あるいは茨城の鹿島だって、これやつけるのそれは大変なわけだが、あっというまに、国見に、かもにされた。
テレビの画面ながら、見ていると、まーよくわかる。
修徳は、鹿児島に同じく、ぼこぼこである。
どうして、そういうことになるのか?
そこに視聴者の興味があるかどうかはしらないけれど、問題提起したってかまわないのではないのか?
誰か日テレのアナウンサーに言ってやれよ。
0-3とか0-5になって、そこで最後の1分間で、「歴史を敗者が作るわけにはいかねーよ」って。
0-1でも負けは、悔しいが、すくなくとも「ゲームが壊れなかった、0-1を追いかけるのもまたサッカーだと」して、緊迫感のあるゲームにはもっていける。
だから、1-0でも0-1でも「そうなる前の」試合の模様というか、細かなところを、見ないと、1-0、0-1に「なる」その必然がわからない。
高校野球じゃないんだから、解説もどちらも「がんばっています」ではなくて、そこを指摘してやれだろう。
その、緊迫感のあるなかで、大人からすれば「わかってはいる」のだが高校生は「おのれをどうするのか」「それはうまくいかないということもあってが」サッカーであって、そこを一般視聴者に教えろだろう。
一コーチはだが、解説のうまいへたはどうでもよくて、今年も、子供たちに、そういう「のどのひりつくような」場をあたえてやる、それがコーチの仕事だ。
(この項終り)