練習課題の見つけ方

2005年1月24日(月)

土曜日は、小田急の駅でいえば、千歳が丘で都立千歳が丘と練習試合。

昔は経堂に住んでいたから、よくわかるのだが、このあたり「も」有名な世田谷のお化け道が多くて、脳内ナビに頼るドライブであるが、けっこう迷ったりする。

おだやかな陽光の土曜日、試合そのものは、相手の高校生がかわいそうになるのだが、「サッカーと」そこの顧問先生が信じている、よくわからないことをグラウンドの上でやっている。
そこの先生がグラウンドで立っている自分のところにきて「個人の能力がちがいますね」と声いきなりかけてきた。

そうかな?と思う。
それはそうなのかもしれないが、でも練習「時間」けっこう多く割いて、サッカーはげんでいるようには見える、でサッカーというのはやはり、ボールがとまるとか、つけたいところにボールを出せるとか、相手をどうだますかとか、そういうスポーツじゃないの?というように思うのが自分だが、目の前に現れているのは「やれ、おまえたちのラインのあげさげがおかしい」とかそういうことに気がいっている(だからサッカーじゃないよね)なんだかわからないお遊戯というわけだ、そこを、直してやって、で、それでもかなわないレベルというのはあるのだから「そんなところと、やるな」でいいのではないのか?

選手には試合後、明日(日曜日)は流経柏で「良い相手だ、こちらが攻撃するというより、やはりむこうが攻撃してきて、こちらは押しこまれるだろう」「きょうは、弱い相手で、まったく守→攻のきりかえ」という意味では、なかった試合である、しかし電柱相手に「攻撃の訓練」やっているより、動く相手に自分たちの攻撃をしかける、そう言う日であって、「同じ(攻撃の)イメージを強い相手にも出せなければならぬ、そこを練習したから」「良かった」とする。

対、 柏は当然、守→攻のきりかえで苦労することになるのが読めている。

例えば、 柏に行くと、インター降りて、十余二(とよふた)と読む、交通渋滞の難所なのだが、その逆の方向に行けば、グラウンド、そこらへん食堂なんもないので、だいたい同じ場所で、食事というようになってしまうわけだ。

そういうとき、偶然「おいしい店」にぶつかるときもあれば、早稲田の、学生のころ学食で食べた、スパゲッテ―・ライスというように、パスタとライスみたいないかにも「貧乏学生のランチ」にまったく同じじゃないの、なんてコンビネ―ションを、「今も」食べるか?というような場もある。

どちらでも、あまり興味はでない。
際限なく、サッカーを求めることはできそうだが、食を際限なく求めて、だからどうだというのだという、それは多分生活習慣病に移行だろうと思っている。

柏のグラウンド、霜解けで、タッチラインの内側、ゴールラインからペナまで、田んぼである。
せっかく、前橋育英ででた欠陥を練習で直して、そのことが理解できたか、出来として、(むろんチームのやりかたは、ちがうが)対柏に「でるのか」そこらを、「観察」したかったのに、「がっかし」である。

前半、ゲームを壊さないように、3人のラインだけで守れない、場面で、ウイングハーフを主には、スペース「うめ」の要員として、使いなさい、必要なら、あがりめも守備にはいる、というところを、選手がやって、前半は0-0であった。

守→攻もそうは悪くはない。決定的なチャンスでこちらのセンターフォワード、シュートがだふって「ありゃ」ってな場面もある。その多くのチャンスをつくりだすのが
1年生のあがりめで、「こいつはいったいどこで、サッカー覚えたのか?」全く不思議な選手が都内の中学から(つまりクラブ育ちではないという意味なのだが)でてきたもんである。
いつも思うのだが「東京というのはふところ深い」この選手があと10センチとは言わないけれど、5センチ身長あったら、「育ててみたい」と思う、
母親には去年の暮れに、とにかく「めしたくさんたべさせてください」とだけ言った。
むろんこちらの、思惑「母親は、わかりもすまい」

後半、たちあがり、2年生で、1年生のときには、才能あったのかな?と思っていたのだが、今は、「こいつは」「ここどまりか」という選手がいて、そいつが本の瞬間のボーンヘッドで、対面のあいてウイングのうしろから追いかけた、結果守備が混乱して、0-1、そのあとずっと「いじめぬいている、ストッパーが」相手のフォワードにインサイドをとられて、ロビングぎみのシュートうたれて、0-2、そのあと、こちらのトップがシュートいれて1-2、そのあとも攻撃良い場面あったが、最後は、こちらのハーフが足が止まって、1-3で終わった。

いろいろな反省もあるが、そおあとのB戦(1-0)で活躍した1年生ハーフをどうするか?そこらが問題となる。
つまり、半年あるいは8ヶ月後、ハーフ構成どうなるのかという、予想に頭悩まされるような気がする。
その1年生ハーフが「守備できれば」「今この瞬間から」そいつに経験をつませるために、Aにひきあげだろう。

なぜかといえば、例えB相手でも、そいつはボールを柏の選手にとられない「からである」
そこが「ハーフの原点であろう」とられない、またとられないために、独自のボールキープリズムをからだとか、ステップがもっている、そこが基本であろう。

しかしむろんそれだけではハーフにはなれまい、こいつの欠点は、からだの動きが奔放であるだけに「ゴールに正対する=ゴールを視野にする」という鉄則の重要さをまだ身につけていないということだろう、なぜってそうしなければ、最高のパスを出せないのだから。

バルセロナでやっているロナウジーニョを見ればわかるとおり、この選手のステップのふみかたも、だれに教わったというのではなくて、いわば遊びのなかで、覚えた、それであろう、だからコーチも、この1年生の高校生のステップを「それは、いかん」という気はさらさらない。

そのステップで、ボールをとられない、どころか「からだをよせてくる相手を」ここはコーチやっているものならわかるが「がつがつと」抜いてくるのではなくて、さーどう言えば良いか、相手にすれば、目の前をいつのまにか通り抜けていく、というそういう抜き方を「する」わけである。
それだけに、そのあと、パスを出せれば、これは最高なのだが、そこは多分そうやって、中学生のころに、抜いていくことが、「快楽」であったのだろう、パスは「まったくない」
というところをやっと「少しは」パスに気持ちが行き出したので、さーどうするの?と、こいつを育てたいね、と、そういうところである、こんなところぐらいが、高校コーチの楽しみでしかない。

こいつが育つと先述の1年生あがりめと2人の4月以降2年生にチーム
のハーフを託す、「それでだいじょうぶか?」というそういうところの躊躇が、ここしばらくのわたしの問題になろう。

火曜日はストッパーをまた、文句いって、これはうまくいくかいかないかわからないのだが、地味でもよいから、守ると言う仕事をやれればよいので、1-3になったとき、このストッパー攻撃にでてといってもハーフライン少しこえたところで、クロスだしておけばよかったものの、ボールをカットしてとられて、逆襲された。

「きみは、才能がないのだから」「うまいパスを考えるな」「ただ空いている味方につけろ」と言われているのに、べつに反抗しているわけではないのだろうけれど、一瞬「魔がさして」「ねらってみる」で、そのアイデアをひっこめると「あとは、何のアイデアもなくて」相手に「とられてしまう」要は「へぼ」なのだが、そんなやつを、たたいて、たたいて、バックにしていくわけだ。

雪がちらつくなかを、東京にもどった。
考えるために高速使わないで、たらたら下道走った、よくあることである
(この項終り)