「ライン崩し」と「プレスはずし」

2003年1月25日(土)

雪やら雨やら、ジプシー、杉並はグラウンドを使えず、今週は練習、ただ1度であった。その1度の練習で、のテーマは、攻撃ゾーンへはいっていったら、どうやって攻撃するかについてであった。

ここで、相川なりの解釈を披瀝すれば、ライン守備というのは、(チームによっての思想のちがいもあるだろうが)3人であれ、4人であれ、その人数に関係なく、複数の人間が、同時に「同じ動きを」する巨人ストッパー、と、攻撃側は考えれば良い、というのが、わかりやすい説明だと思っている。

ひとりのストッパーが、直面する、いろいろな守備の問題、例えば、
○ こちらのゴール前「から」ひいて、足元にもらおうとするトップにじぶんひとりで、どう「守備的対応をするのか?」
○ 相手が、ひとりのトップとシャドー(影の)トップをもってきて、自分が、ひとりのトップをマークにいっても、基本的には、シャドートップに「留守した,ゴール前スペース」をうまく使われる場面で、ストッパーはどうするのか?
○ ストッパーの、自分は相手のトップをコントロールしているのに、たびたび、相手のハーフが、こちらの守備ハーフをだしぬいて、自分の目の前で2対1を作られる、

他にもいろいろあるが、そういう単独でストッパーをやっている時の問題のうち、最大の問題、「自分の裏へのパス=スルーパス」を「隣同士の間隔をせばめることにより」また「オフサイドトラップの多用により」ほぼ出させなくした、というのが、ライン守備あるいはフラットライン守備だという解釈をしている。

それで、確かに、効果があるので、猫も杓子も状態になった。

特に、このラインの動きというか、ライン全体の左右、前後の「動かし方」をグラウンド外から「ああだこうだ」とコマンドを与えるということが「優秀なコーチである」という誤解が生じたし、また、野球のように、投手の1球、打者の、一振り、なんでもかんでも、コマンドを出そうと思えば、出せるスポーツに比較すると「何をもって、その仕事をしているのか?任務を果たしているのか?」一般ピープルからすれば「わかりにくい」サッカーの、コーチが、そとに向かってエクスキューズ(言い訳)するのに、最適の道具が天から、与えられたような、ことになった。

このあいだ、サンフランシスコ・フォテーナイナーズ対バッカニヤーズの、アメリカンフットボールのゲームを見ていて、きがついたのは、モトローラ(製だと思うのだが)スタッフの連中の、使用している、イヤーハング式の無線レシーバーが、ハード的にだいぶ変わったじゃねーか、ということであった。

サッカーでも、仮に、国立だ、横浜国際だで、ゲームをやったら、コーチのひとりが、最上段スタンドから、モトローラを使って、グラウンドレベルに随時、連絡というのも、悪くはないかもしれない。

アメリカンフットボールは基本的には、瞬間、瞬間の守備、攻撃のフォーメーション勝負というところがあるから「して」そのスタッフがモトローラなども使いつつ、仕事を「しているぞ」という雰囲気をかもしだしてはいる、サッカーはそこがわかりにくい、わかりにくいが、もし、ラインを動かすというのなら、確かにそれは、コーチの仕事でもある、しかしいくら、ラインをコントロールするのが際立っていても、しょせんはそれは守備の仕事だろう。

守備に対して攻撃をしかける、という言いかたでは充分ではなく、「攻撃を変化させながら、守備を破る」ということをされたら、基本的には守備の変化は、攻撃の変化に遅れて対応していくしかないわけで、理屈からいえば、やはり攻撃じゃないの?(ただし攻撃が、ひとつしかけてあとはそのくりかえしだったら、守備が対応して、そこで攻撃が終わるというのも理屈だろう)

ノドンに北朝鮮が「燃料つめたら」それをもって、日本に攻撃の意図あり、と判断してよいのだというようなことが、さらりと国会で議論されているが、よくわからないのは、「燃料つめたら」をどうやって、日本はモニターできるの?それに、ノドン発射基地にどうやって先制攻撃をするの?というそこが理解できないことである。

わかっているのは日本が突如、ノドンが飛来してきて、爆撃されるという場面が「そんな、バカな」ではなく、あるかもしれないに、なったということである。
そんなことはとっくの昔に、わかっていたのにね。

ただしそんなことになれば、東京で、何十万の被害者もでるが、アメリカ軍が、核弾頭を装備したトマホークをピョンヤンに放つ、からと、そしたら北朝鮮はこの地球上からなくなる、と、安心してよいのか、どう言うように考えたらよいのかわからなくなることを、言う識者もいる。

いずれにせよ、サッカーでも、攻撃はネグってよいことではないわけだ、すなわちラインのあげさげだ、左右どこまで行けだを、言う「だけ」では、あんたは「コーチじゃないだろう」でよいだろう。

そこで、ラインは「ひとりの大きなストッパー」でかんたんには「その巨人ストッパーの裏」を、こちらがとれない、それは認めよう、で、そこから対巨人ストッパーへの、攻撃を着想していく、ことを高校生にも課していくわけである。

もうひとつやっかいなことは、その巨人ストッパーは、彼の前に、これもまた、ハーフの名前にはまったく値しないのだが、ボールないしは、ボールを操る足が「動いているのを見れば」ひたすら、条件反射的に、そこにやってきては、いわゆるプレスをかける駒といおうか奴隷(ラインの)といおうか、ロボットと言うか、まったく、よくそんなことをしていて「あんた厭きないね」と聞きたくなる、ハーフ団を置いて、そいつらに、ボールを追わせる、ということが、組みになっているということである。

相手がライン「で」こちらのボールを取るのか?ハーフのところの「プレス」「で」,こちらのボールをとるのか?
それは、違うことだと言っている。
そこが攻撃をどう組織したらよいのかの、ポイントになる。

これは別な表現をするなら、昔、昔のひとりのストッパーでも、目の前でエネルギッシュにまた、知恵をだして働いてくれる、味方のハーフが機能してくれるなら「この日のゲームでは」「自分=ストッパー」まで相手の攻撃の力が波及してこないというゲームもあるわけで,それは今の世もかわらないだろう。
つまり、ハーフのところで、相手の攻撃は「尽きている」

今も同じで、ラインの前で相手のボールがことごとく、こちらの(ハーフの)プレスで、実際ハーフのところで、相手にすればデッドになるか、あるいは、ハーフのプレスの結果、まったく命のかよっていない、ボールがラインのところに、ころがってくる、ゲームもあるわけで、昔も、「この日のゲーム」できれば、そういうゲームに「したいね」という思いはあったわけである。

そこで、攻撃を考える場合、「いきなり、ラインを崩す」という練習をしても、実際には、ことごとく、相手の(ハーフの)プレスのところで、こちらがボールをなくす、だから試合はまたえらく「けちょんけちょんにやられて,相手のラインは息も切らさなかったね」という印象になる。

誤解されたくないが、練習初日に、ラインを「いかに崩すか」をテーマにもってきても、それがいけないというのではない。
サッカーの攻撃のいわば本質のところだと思えば、与えられている、時間の多くを,ライン崩しに、割くのも、正しいし、また楽しい。

ただ事実としては、プレスにどうやって、対応するのかというテーマを、「こなせなければ」練習で「ライン崩し」をこなしても、そこまでいかないで、ゲーム(それがゲームかと思うが)が終わってしまう、ということを言っているわけだ、
戦国時代に、相手の将の首をとることが、勝つということだと信じて、刀や、槍で、武術をねっていた、侍が、突進していったら、種子島で撃たれて相手の本陣にたどりつけなかった、と言うのと同じだ。

ということで、便宜上、練習で「ライン崩し」と「プレスはずし」を区別している。
また外国チームのゲームを生で、であれ、テレビで、であれ見るときは、そういう目で、見ようとしている。

ここからいろいろなことを言えるつもりだしおいおい、いろいろなことを言っていくわけだが、自分でも、サッカーの考えがふらふらどこかに漂っているかのようで、的を得ていないね、という場合でも、いわば考え方の枠組み、ということで、

プレスはずし→ライン崩し
高いところでのプレス→速攻

という、この4っつの考え方の枠組みをまず置いて自己チェックしている。
高いところでのプレス→速攻ということを、説明ぬきで、今、ごろんと言ってしまっているわけだが、別に説明ぬきで、理解されるであろう。

練習のテーマ、もっとも大きなフォルダーとして、
プレスはずし、というフォルダーがあって、そのフォルダーのなかに細目されたいろいろな小テーマがある、また同じように、重要で大きな「ライン崩し」というフォルダーがあって、またそのなかに小テーマがいくらでもある。
そして「高いところでのプレス」というフォルダーが別にあって、攻撃的守備だ、というやつがいて、それはそれで、何を言おうがかまわないが、このフォルダーを開いて、高いところで、今度は、こちらが相手にプレスをかけにいくことを,チームに移植したとしたら、すぐに「では、高いところでのプレスが成功したら」どうやって「とった、ところから速攻に移るか」というフォルダーがあって、また「高いところでのプレスに失敗したら」「ではどうやって守備するのか」のフォルダーが、あるという、そういう整理のしかたである。

情報が氾濫しているところに、相川また手を貸して,余計混乱させているかもしれない「が」
この4っつの考え方を、ものさしに、今自分のチームに、自分は、何を導入させたがっているのかを整理することができる。
(この項終わり)