ライン崩しの深層

2003年1月29日(水)



今週は、土曜日に東京都ユース、アンダー17のベスト8「から」のトーナメントで、FC杉並はFC東京である、

いまのところは「まだ勝てない」と考えている。むろん個々の局面で「気合で負けたら」「おまえたちは、高校どまり」「選手にはなれない」とふきこむから、タフなゲームになってくれて、そこで立派に闘ってくれれば「よし」としているわけだ。



戦争は、いつも総力戦なのだからひとつのチームという戦闘部隊の戦力をアップするだけでなく、では補給はどうなのか?外交はどうなのか?練習環境?広報?等々いくらでも仕事があって、そういう多角的なチェックをすれば、FC杉並は、FC東京の敵では残念ながら「ない」



では今度の土曜日のゲームに関係なくいわば長期の戦略として、どういうようにしていきたいのか?そこだけが、大切だと自分などは思うタイプのコーチであるが、ただ結局は勝負で「勝って行かないと」その戦略を実行する突破口さえ、見つからない、ここが企業が持つ戦略とは異なるキャラがある。投資をしたところで、戦略の目標達成にはいたらないこともあるから、投資よりも投機か?



さて前回からの、続きである、

ラインはひとりの巨人ストッパーだとして、では、どうやってラインを崩すか?

それは、わざわざ、ラインを巨人ストッパーだなどと、いう言いかたをして、読者にあることを示唆しようとしているわけだが、3人やら4人が「ラインを編成して」協働する「から」それを打ち破るのが、むずかしいにして「も」やはりそれはストッパーである、だから単独のストッパーを相手に、彼をいかに出しぬくのか、の「古典」を頭にいれて、そこから「ライン崩し」の着想を得るということが、よい。



コーチが対ラインの戦術の着想を得る、場合にも、上に述べた、人数にごまかされず、古典のストッパーを「打ち破る」方法を,対ラインにむけて、書き換えて、戦術を整理する、他方で、選手に対しても、(ここを嫌になるほど、選手にくりかえし注意させるのだが、)ラインではなく単独の(普通の)ストッパー相手に、いわば古典として、フォワードはどうやってストッパーを崩すか、それを忘れさせてはいけないということである、



選手に強調するのは、実際に、ラインを形成するのも、人間であるから、ゲーム中に、いつかラインが凸凹ということもあるわけで、そのときにはそれは最悪の組織になっていて、それを崩すというより、突破するのはむしろ昔のママの、強いストッパーと、よくカバーできるもうひとりの選手を相手にするよりも、はるかに楽ということもいえるからである、

つまりは、コーチは夢の中で、ライン崩しを、自分がやってきた古典的なストッパー相手の、闘い、を下敷きに夢想していくが、選手はそのもつべき、ゲームの読み取り能力のうち、実際のゲームのなかで、相手のラインの統率が最後まで、乱れないか、逆に彼等の呼吸の乱れというものが「あってしかるべきだ、なぜなら人間がやることだから」という思いをベースに、古典的に行動してもかまわないと言っているわけだ。



そこで

そういうように、ラインがただの虚仮(こけ)になってしまったら、



● フォワードの裏への走りだし、は依然としてサッカーで重要な要素であるから、まだ、ラインが崩れ出していなくても、オフサイドを恐れず、巨人の裏側へ走りだし、そこに速いタイミングのパスをつける、というのは、だいじなことである、それを定期的にくりかえし、選手に理解させる「が」

● ラインがまだ息も乱れず統率されていて、彼等の「プレス」を、こちらがうまくかいくぐっても、まだそこにびしっと、いる場合、こういう攻撃法があるだろう、

● ラインの前で、「速いパスの交換」かならず「パスアンドゴー」を課して、ラインの中に、こちらの、3人目、4人目とあげさせていく、そのままこの3番目、4番目があけば、それが突破だが、

● またもうひとつの考え方としては、そのパス交換そのものはおとりであって、ラインの警戒のゆるむスペースに、5番目、6番目があがって、そこにパスということもある。



ここのところをもっと書きこみたいが、いくら書いても、伝わらない、コーチが、相川の着想をすとんと腹におとして、明日から自分のチームに活かす、というそういうわけにはいくまい。この着想はエジムンドが、2年目にVerdyのサッカーを変えてしまった、ことを(良いか、悪いかは別に)見ていて、いろいろと推定したうえで考えた。



そのエジムンドは、浦和に行って、ロングパスを金科玉条とする、オフトとまた場外バトルをやるだろう。

なにしろ、エジムンドは味方からのロングの可能性に一切始動しない、ただ、足元にくるボールはまずは「キープ」であるそして、ふりむいて、3番目,4番目にあがってくる選手にまたショートである、エジムンド1年めのサッカーと2年目のサッカーがまったく変わってしまったわけで、桐蔭からいった、小林(ロング使い)がエジムンドとグラウンドでとっくみあいの喧嘩になった、というのも良く理解できる。

ただプロの世界「だから」小林やら、山田がつくっていた、中盤を、エジムンドが推定だが「そんなロングを使って、とられても、俺は守備しないぞ(事実守備しなかった)そのかわり、足元にこい、また次のショート、ミドルのコースをつくれ」それで最後は自分が足をふって、結果を出してしまった。



そういうことは、わかる、わかるというのは、では「そこで」コーチが「選手に沿う」そして成功ということがよいのか?そのコーチにはそのコーチのサッカー観があって、エジムンドとは相容れない、だから「辞める」のか?

選手に沿って、自己保身というのは、良くあるパターンで、世間の自己保身からすれば、可愛いものだが、最後はやはり「切られるだろう」



エジムンドがブラジルにもどったとき、Verdyの側は、本当に何も「わからなかった」ようである。

そのエジムンドが浦和にきたときも、たまげたにちがいない。

監督ロリは、今度はエムボマを使え、といういわばいやがらせである。

こういう選手のいれかえというところだけは、にわかにヨーロッパなみになってしまって、エジムンドでもエムボマでも,日本式なんてことは歯牙にもかけないだろう。



そんなかで、岡田監督は「遊び人は使わない(新聞報道)」とかいきなり「おはらいに行ってしまう」とかからかっているつもりではなく、日本式、である。

それでいてカフーをいれてきた。カフ―という選手のこと何もわからないが、「一生懸命」「真面目」というようなそれはそれで、日本人にはよくわかる価値をめぐって、異国の民族性は「こちらを、わからない」し「こちらも、むこうがわからない」読売を辞めて外国資本企業ばかりで、働いた相川さんには、サッカーの場面ではなく、普通の仕事、普通のつきあいのなかで、こういうことをいくらでも経験した、なかには、映画もどきに脅されなんてこともあった。



日本式はやはり世界では、通用しないという経験を生きたが、さりとて、日本人の社会では、日本式である。また、外国に行って、外国の人間には、自分がアメリカ人であるイタリア人であるというわけにはいかない、日本人を「やる」しかない。

(この項終わり)