コーチという職業
2007年1月30日(火)
柴野先生から、2月3月4月までもの栄光サッカー部のスケジュールが、おくられてきた。自分はそのスケジュールを、相川の私的日記というファイルにコピーして、ペーストする、相川の場合、日記は、またスケジュール表としても機能させているので、駿台のスケジュールだろうが、栄光のスケジュールだろうが、そのほか、どこへ「のみにこい」とか、あらゆるスケジュールは、自分の日記に、現れる。
なんでもかんでも、日記に、ほうりこんで、「で」例えば、2月02日には、なにをしたらよいのか英語でいえば。What to do?そこに、書き出して、「で、それをやらなければそのままデリート、やったなら記録にとどめる」何月何日は、駿台の試合で、千葉の四街道まで行ったならそのスケジュールが事実としての記録で残る、おなじときに栄光の練習なり、試合があったとしてもいかなければデリートして、スケジュールそのものの、記録は、どこかへ消えていく。
そこまで、おたくにはならない、ということだ。
で、そうやってスケジュールだからいざその日になって、どこへでかけるかはわからないにせよ、4月5月までもすくなくとも栄光の、スケジュールはでてしまって、駿台がなければ栄光の行事にいくわけだが、このあいだ、06年が終わって、07年になったと思ったら、その07年もスケジュールの上では5月がすぐきて、5月は「これこれこういうことを、何月、なんぼにします、」ということが、迫ってくるというわけだ。
そうやって、人生はあっというまにたぶん過ぎていくのだろう。
一方に、言って見ればコーチという職業だが、個人として「時間というものの、過ぎ方に、どうしても、なじめないで、」「もうここまできたのか」とか「あっというまに、時が過ぎたがそれがおかしい」という感情を、もっている個人の存在と、その時間の経過にしたがい、なにかいつのまにか、なにかが達成されたかのような、思いも、感じる、二つの、よくわからない感情に支配されている、「自分というものが」いるわけである。
職業的な視点ではなくて、目の前で、栄光の中学生がサッカーで遊んでいれば「自分の思いは、はるかな過去にむかって、いまの中学生と自分が同じ、年齢であったときに、場所は違えども、ボールに救われていた、その日々に、もどるのである。
いやボールにすくわれていたのではなかった。
そうではなくて、友の、なんということのない、情にすくわれてきたのだろう。
だから人生なんてそれだけだろうが、とあえて思う。
だれそれは別に、相川のことを、深くかんがえてくれたわけではない、ただ、その友人を育てた、父や、母が、単純に彼に教えた、考えに沿って、「相川なら、相川を、さりげなく救ってくれた、さりげなく、対等に、さりげなくひととして、扱ってくれた、そういうことであった。」しかし、そういうことが、あったから、この場合は、相川は、救われたのだろう。
それが貴重と、いまは思える。
だから、いまも、栄光別に、勝たなくても、だからどうしたである。
いまの高校生であれ、中学生であれ、サッカーやって、結局は、救われるのである、どんなに、若き、シニシズムの信徒がいようが、サッカーではなくて、ともに、サッカーをやった友に救われるのである。それ以外に、若い日々に、サッカーを「やる理由など、ないぜ」といまなら、相川はっきり、言える、受験狂いの親にでさえ、「言える」と思っている。
だから、サッカー続けなさい「であろう」
新人戦は、シードの1回戦、のあと、サレジオの2回戦は久里浜に行った。
アップをせんしゅにやらせていたら、10期生の清水さんが「おおーい」とばかり手をあげてくれた。これもまた「ありがたい」ことである。
コーチの、指導マニュアル、なんていうものはないのだが、それに近い教本にこうある「とにかく選手に、機会さえあれば話しかけなさい」と、清水さんは、選手に「おおいと」いったかもしれないが「相川に」「おおいと」いってくれたわけだから、それが、ありがたいことだと、そういうように感じる、自分は、十分に、栄光サッカー部で、相川に「なった」のであろう。
だから同じことを、現役に、それとなく、設定してやりたいのである。
ほかにも、菅沢さん、石原さん、大泉さん、押本さん、望月さん、高橋さん、坂本さん等々が寒い久里浜のグラウンドに、やってこられた。
ありがたいことである。
いつか現役も、そのことを、感じるだろう。
ひとが、他人にふれあう、そのことができにくくなって、でいろいろな問題が起きている。13期でだれだかわからないが「死んだやつがいて」自分のともだちがあるやつに、「葬式にきたら」といったら、そいつが「なんであいつの葬式にいかなければならんのか」といったとか、いや、それはそれで、いい。人間が関係していくときに理屈を先行したら、あいつとは交わらない、あいつは嫌いだから、葬式にも出ない、ということ「も」あろうか、いまさらそれを驚かない。
栄光のサッカー部にいたからといって、なんで、昔の人間関係を、復活させるのかとか、なんで現役に、サポートよせるのかって、理屈言ったら、なんでも通る。
だからこちらは昔、仲間が無意識のうちによせてくれた、情というもの、を「いまも、たよりにしている」というのではなくて、いまはいま、あくまでも、30年前の先輩であっても、いってみれば新たに、人として交情を、新規に、つくりなおすというように思っている、ひらたくいえば昔「があるから」だから「いまも」などとは思わない。
サッカーをやっている後輩のふるまいを見て「楽しむ」そこを、共通の感覚として、いま、あらたに交情をつくっていくことができそうだから、「ここに」いるのだろう。あるいは、だれそれさんは「ここに」きてくれるわけだ。
翌日は、めしのたねにしているほうのチームが、当座のライバル、保善との一番で、久里浜に顔出せなかった。保善は新人戦の地区大会の決勝で、0-0、PK勝ちで、やつけてやれやれ当座は対戦しないだろう、と思っていたのに、都大会で、1回
戦、また対戦という状況。かろうじて2-1で、やつけた。
次は、暁星、これは4月になる。
栄光は、市立東に、逆転で負けてしまったそうな。ベスト16で終わってしまった。
14期赤沢、いまは大島先生と2年前に話したとき「相川さん、いまは公式試合で一勝もできない」と話したのを、思い出す。
それに比べたら、なにごとかの達成かもしかし、8でも4でいけたのでは、実は思っている。
(この項終わり)