グランドに集中
2004年2月08日(日)
しばらく、コーチング日記おこさなかったが、コーチング・ライフは元気で推移している。
「ずっと、いろいろな事柄を、チームに試してきている」その「施策」と「結果」について、悩みは「ないが」しばらく、結果がでないので、練習に集中してはいた。
表現できないことはないが、グラウンドの上に「でてくる」ことだけ、集中していたといえるか。
2月08日(日)朝の8時半に赤坂を出て、9時40分には高崎に、着いた。
かなたの、赤城山には雪がつもる。
育英が関越道のそばに、人工芝のグラウンドを新設してやがてはクラブハウスやら宿舎なども作るという、その人工芝のグラウンドで育英と試合して、やっと1-0で勝てた。
波崎でのチームと同じかどうかはしらないが、立派なゲームであった、感想をいえば、育英、流通経済柏より守備「うまくない」あるいはトップこわさがない。
ただ、走るのが好きだとはいえる。
前半、育英の作戦は4バックのラインで、中央から例えば左につないで、また右にもってかえして、右サイドバックを走らせる、というもの、こちらは2トップだから、こういうときは、こちらの「あがりめ」が守備時には、「トップのライン」にはいって、2トップの守備における走行量を減らす(だけでなく、あがってくる=相手のラインから、離れてくる、サイドバックを、間に合うように制圧する、ということになっているのだが、あまりその点がうまくやっていたというようではなかった、が育英も、そういうことを目指すが、ゴール前でかたちは、つくれない、そういう攻撃法のあいまに、ハーフにつけてみたりするのだが、そう言うやりかたのときは、あきらかに「いなかものくさい」
サッカーになる。
日本学園のほうは、サイドバックの守備→攻撃のきりかえが遅い、というより、常識的すぎて、まったくおもしろくもなんともない、ハーフタイムにサイドバックをつかまえて「男でも、女でもない、臆病者だと」一喝したら、走り出したが、
今後が思いやられる。
4-4-2のハーフの構成をどうこう、よりは経験でいって4のラインのサイドのプレイヤーにひとを得ると、基本的には、このシステムはこなしやすくなる。
2トップは「スプリットせず」といって、基本的には、いつも、2人を結ぶ横の長さをひとつにしたいというのが、基本なのだが、ひとりのトップがはっきりいえば、知性がなくて、ひとりのトップが孤立という場面が目立つ、(ので、ハーフタイム、ここを注意したが、それでも、胸のおくにひびかない、)
後半、育英、なにを思ったか?ラインでまわし出す、あるいはバックパスを多用しだす、ますますサッカーがいなかものくさくなる。
日本学園にコーナーからクリーンボレーを決められて、もしこちらのトップがもう少し気がきいていれば、またあがりめが同じく気がきいていれば、3-0のゲームであったと、思う。
その前Bが来年育英にはいる3年生に0-3でちんちんにされていた。
ハーフタイム「おまえらサッカーやめたほうがいいよ」とくさしたが、そのくらいなにもない高校生であった。相手の中学生にほしいやつが3人いた。
厚木のサッカーパークと同じ、すばらしい人工芝なのだが、ボールがとまらないやつがいて、まったく、こういう子はどうしてサッカーなんか選んだのか?不思議に思うわけである。
サッカー、要は、昔も今も「センス」である。3年先の育英のAには、センスを感じさせる選手が何人かいて、うらやましいのだが、今のAには皆無であるのだが、そういうものなのだろうか?高校にかぎっては、2メーター先のオフサイドは「とらない」というローカルルールを適用したら好いと思える。つまりはフラット禁止、だって、高校生のラインズマンって、ショートパスのとき、オフサイドというのは旗あげられるが、ロングやらミドルでパスだしされてそのボールがプレイされる瞬間と突破しようとしかかっている、フォワードの同時視って「できないし」またどうやって「それやるの?」と審判部にききたいね?
日本学園は今テーマとしては、フラット崩し、壁パス、ということをここ1―2ヶ月テーマにしていろいろ、練習している。これだけいっても、その内容は伝わらないのだが、中央を使う、使うぞ、という態度を学習すること、そのうえで
外へ「ちらす」古典だといっている。人工芝のような良いグラウンドではかんたんにいえば、パスの出して、と受けての「息もぴったりあうし」育英がかべをいれられても、そこでこちらが、ボールロストでは「なかった」だから学園は「できるときには」いつも相手ゴールへの最短距離に行こうとする(行けなければ、また別な判断なのだが)、それが面白いサッカーではないのかという、単純明快なメッセージの伝えてでありたい、それだけである。