北朝鮮戦を終えて
2005年2月09日(水)
もし、きむ・じょんいるが北朝鮮代表がピョンヤンにもどって「誰を、粛清するかといえば」むろん、キーパーである。
ニュースでくりかえし、大黒が蹴りこんだ場面を、見ると、北朝鮮のバックのひとりが、ひっくりかえっている、キーパーの横で、怒り狂っているシーンも見えた。
「あそこに」ボールはじいて、だからなんなんだ?と、言っているかのようだ。
最後の3分の場面の中で、高校のきつい試合だって、ああなる。
ああなるという言い方はなにをいっているかといえば、北朝鮮の「バック、ライン」当然自分たちで、からだをおもにはヘッドのために「はるしかない」時間だと、感じている、そのいわば北朝鮮にしてみたら「本来さけなければならない、いやな15分なのだが」とにかくその時間帯、その場面に釘ずけになってしまった。
で、そうなってしまったときには、「キーパー」のさーどういうのか、ちょんぼ、があたりまえだが、はじめて、試合を決める要素になるにきまっているので、最後の、クロスだけでなく、この試合中にもともと「腰ひける」体勢で、フイステイングで、だいたい
対応してきていたこのキーパーなのだが、その、最後に、運命のボールはペナのはずれに「おちた」
バックにしてみたら、「はちゃー」というところだろう。
こういう場面見たとしたら、イタリアのキーパーコーチだったら、練習中から、キーパーのプレイの結果というものを、言うだろうに、つまりキーパーのボールキャッチ、タッチ、一撃は一見「はでにみえる」が、あそこに落ちたら、どうしようもない。
では、どうするか?
そこは、とくに考える対象であるというのが、自分の考え。
さてメデイア関係の奴、メデイアに魂売った、元サッカー選手も「絶対勝ちますよ」なんて戦前いっていて、確かに勝ったけれど、「いやー思わぬ、思いがけない」苦戦でした、というのだが、おまえら「前提間違っているわけだから」試合後のその思い入れのコメントも「ちがう」だろうに。
ゲーム、もう前半から、北朝鮮のたまぎわへの、「からだのはりかた」これこそ、代表対代表だというゲームになっていたのである。
ただし、北朝鮮「ちがうな」ということが、いくつかあるような気がする。
ひとつは、シミュレーションに対する認識が甘いということ、最初の、サントスの「倒れこみ」はありゃシミュレーションでねーーのと思えたが、レフェリーはサントスに騙された、それなら「こっちも、倒れる」という北朝鮮のプレイは逆に、とられなかった。
だから、そこが、しっかりしていたなら、もう少しゴール前に行けたかもしれない。
第2には、バックパス多用しすぎと思える。
1-1においついたボールの流れなど、昔の朝鮮総連の試合での攻撃によく似ていて、ダイレクトが何本も続いたのだが、あのダイレクトの連続を、実現するためには、当然、そういう「ひとのならび」になっていないといけない。
では、なっていないと、どうするのか、つまり(ああいうダイレクトをいつも、いつもやれる)充分な人数が、いるわけではないのが、サッカーなのだから、そこで、個のキープ力とか、「もつか」「パスするか」の判断をするということが、今の日本のサッカーのベースになっているが、北朝鮮は、「いつも」「はやさ」を要求するあまり、すぐバックパスを用いる。
それでは、プレッシングサッカーの餌食になる、ということが多分わかっていない。
それから、高校生にはさせないが、彼らは長い間、いっしょにやっている大人なのだから、ラインを「どうあげるか」オフサイドとるぞ、という「かまえ」だけでも、[見せない]とああやって、ゴール前に押し込まれてしまう、ということも研究しなければ、最後の日本のパワープレイをしのげないであろう。
北朝鮮は、1-1になって当然、分け狙いでよかったのだが、しかしあれでは、最後の時間帯、しのげないだろう、しのげない、サッカーをやってしまったわけだからそう言う意味では、北朝鮮、やはり「弱い」と見た。
昼間、ランチとっていたときに、朝日新聞でオシム氏と加茂さん(女子選手の、さわも予想していたが、そんなものは、読まなかった)勝つ確率はというわけわからない問いかけに、オシム氏は「サッカーではそんな質問は無意味だ」と「こうやって、媚びなければいいじゃないの」と思う答え。さすがオシムじゃん。
加茂さんは「80%だと」いやいや先輩、発言なんかは、実際のプレイには関係ない、から、なにを言ってもよいのだが、まだまだ日本はサッカー大国ではないのだから、この試合の事実、削りあいに似た、展開を試合前に言うべきなのではないか?(オシムはそういう表現はしていないが、)サッカーはなにが起きるかわからないとこれもまた、あたりまえの言いかたをしていて、だから「それでいいではないの」という、そう言っておけば、サッカー人の考えの「なんたるかが」一般ピープルに「ひろまっていくのだろう」と、まさにそういう試合の現実であった。
オシム氏がもうひとつ良いことを言っていて、「日本は」「個」の力に依存しているチームではないのだ(だから、だれを投入して、その個の力でゲームを支配するというようなチームではない)といっているのだが、まさにそのとおりであった。
結局「たまだ」も足(やはり)ふれなかった。
高原も、しゅんすけも「すっと」でてきて、相手からしたら「はちゃ」ということにはならなかった、とくに中村は北朝鮮のさきほどの、バックパス多用とはちがって、確かにおちついてキープするのだが、結局そのあとどうできるかといえば、「ためのある」バックパスをだすだけで、やはりあれでは「セリエでは」通じないだろうにと思えた。
わたしは、むろん北朝鮮の政治体制なんどいかなる意味でも、尊敬はしないのだが、それでも、在日の朝鮮のふつーのひとたち、そしてその国家への忠誠尽くして、80分までは、死力を尽くした、選手の姿はいつ見ても、美しいと思うのであって、この代表チームが(選手にはごくろうだけれど)死闘を続ける限り、サッカーは滅びないだろうと思った。
オシム氏が不思議なことをいっていて、ホームで負けてもアウエイで勝てば良いのだと、
多分、彼の、考えは、攻撃してくるホームでの相手チームのカウンターを誘発できるじゃないの、ということだろうが、今度はイランである。
田中のかわりはいそうだが、サントスのかわりが「いない」という思いにジーコは囚われるだろうか?
いなくても、良いのだが。
(この項終り)