どう戦うのか反町ジャパン

2007年3月1日(木)

言葉は虚空に消えていく。
誰の言葉も。
そのなかにどうして、我がこころに、残る言葉があるのか、それともそんな言葉もじつはないのか?

昨日の香港対日本を見て、オシムは、水野がよいと言ったそうだが、自分も赤坂一ツ木の漫画喫茶で、この試合見ていて、そう思った。

で、そんなことはどうでもよいのだが、自分なら「この水野」を右サイドのウイングに使うだろうねとも思った。

ただし、足元にきたら、機能しそうだが、この日のポジションでは、スペースに走る選手かどうかはわからないので、そこがもしできるのなら、右ウイングいっちょうあがりということになる。

で、もしそうなら、だが、ひらやまはサブ。

カレンでも李・ちゅんそんでも、どちらでもよいから、トップだろう。
というのは、自分が画面見ていていらいらするのだが、誰であるか名前も顔もわからないが「うまそうに見える」この日のハーフからしたら「ひらやま」なんかとてもではないが、「パスだせねーよ」と陰で言っていそうだ。

むろん反町氏のシステムに対するアプローチは、それこそが、監督の専権事項だから、批判はないというか、議論が成り立たないような気がする。

この水野と、もうひとり誰だかわからないが左サイドに「ハーフ」がいて、そのうしろに「2人ボランチ」そのうしろに3人のバックで、3-4-3ともいえるし、3-2-2-3ともいえるのがこの日のシステムであったように見えた。

それはよいが、素朴な疑問で、3トップ左から、李ちゅんそん、ひらやま、カレンのとくに、カレンと李ちゅんそんを、どうやって走らすのか?という課題をチームはどう考えたのか?そこが見えなかったのだがそれは、李とカレンのうしろにいるはずのサイドハーフがたぶん、パスを縦にだすべきなのが、あまりそういう面は見られなかった、1-0のときの、カレン→平山へのオフサイドパスのようにそれ自体がいけ
ないというのではないが、カレンはパスだしを買われたのかい?とそうではなくて、ランをしてなんぼのポジションでは無いのかと思うわけだが、むろんランしない、かれらがいけないのか?パスを出さない味方がいけないのか?そこはわからない。

自分の理解では、3トップのウイングは、こういうことではないのか?
1) まず、裏に走りこもうとする、そういうプレイで、相手のフラットラインを下げさせる
2) サイドで相手のサイドバックを、神経質にさせて、それで、裏が無理なら足元でもらって、そこで個人攻撃であろうが、仲間の助けを受ける場合だろうが縦を、つく、で、先述した、水野などは、足元で受けたら、相手に威力を発揮できるようには見えた、だから、良いとしたわけである
3) そういうように両ウイングどちらからでも、相手がこわいな、と思い込ませて、それがまず最初であろう、次には、左と見せて、右のサイドチェンジもあるだろうし、ウイングのポジションチェンジもありだろうなぜなら「相手が、ウイングをフリーにしたらやられると感じれば、香港のラインが横に、動いてしまうからである、
4) だが試合の最初から、ウイングを生かすという感じはなく、3トップが半端な幅で、(ひらやまは、まんなかにいてよいわけだが)カレンと李ちゅんそんがタッチプレイをするという感じではなかった、ように見えた。
5) ひらやまの1点めは、フラットをひいて、そういう平山の突進は、オフサイドトラップで、抑えるはずの香港が、どこの高校チームだって、警戒する、昔で言うラインズマンのプアーな判断で、無効になってしまった。そういうことがあるから、オフサイドトラップを大一番の勝負で多用するものじゃないと筆者など思うのだが、香港の黎新祥監督はどう思うのであろうか?
6) ただしどうやら、反町氏は、3トップを連動のユニットとしてとらえているらしい、つまり3人の動きに制限をつけず、瞬間、瞬間に、3人がターゲットになるように、ランを求め、あいての4人のバックの判断の混乱やらマークのずれを、利用したいかのように見えた。それはそれで、わかるような気もするが、1試合それでまかなえるとは思えない。とくに、トップのひらやまが、どう考えても、機関車タイプのフォワードではないのだから、機動の、起動にも、ほかのフォワードのランが起動になった結果の「ごちそうさん」のボールの受け方をしても、そこで、どじるので、おそらくこのさきもうまくいかないのではないだろうか?

香港も弱いとかそういうことではなくて、どうして寒い東京まで来て、勝たねばならない試合で、横パスサッカーをするんだろうかという感じではあった。だから、日本の3バックも問題は感じなかったろう。ということは選手の責任ではないが、まだ予選はバックに関する限り始まってはいないわけだ。
 
日刊現代で、鈴木國広氏が、「通訳が見たその時ジーコは」という連載をしている。
ためになるときもあれば、ご本人は、別にコーチのために、これを書いているわけではないから、「コーチからして」役に立たんでもよいわけであって、漫然とした、ジーコ礼賛のときもあって、いつもいつも考えさせられる素材というのではない。

ロナウドについては、「選手ジーコ」のやはり優れた考察が記述されていて、よかった、それをコピーしておく。

ジーコがロナウドの特異な才能を感じたのは、ある草サッカーの試合の時だったと話していた。中盤のジーコは前にいるロナウドにパスを出そうとしても、最初はタイミングが合わなかった。
ところがしばらくすると「ここに出そうと」思った場所にロナウドが走りこんでいることに気がついた中略「パスを出す人間が出したいと思うスペースを感じ取りあらかじめ走りこむことができるいろいろな選手を知っているけれどロナウドほどの得点感覚をもっている選手はいない。

ここのスペースを感じとるというところまではわかるのだが、ジーコほどの偉大な選手だから、そこにはいってはくるものの、その「あとが=コントロールとシュート」やや難アリという選手もいるということを、知っているだろう。
つまりジーコは、ここでそのふたつがロナウドのなかに一体になっているということを、言っているのだろうか?

なぜここを紹介したかといえば、さきの「ひらやま」のどこに、そのスペースにはいってくる感覚があるだろうか?という疑問をもつからである。代表に、そういう感覚欠如の選手がいるということはおかしいのではないか?

試合後のメデイアは例により「たたきすぎれば」サッカーで売れなくなるわけだから「何が言いたいのか、サッカーとは無縁のことで、文章をつくり」これから進化していけばよいだけの話なのだが、金子達仁のように「鬼軍曹が必要だ」とかわからないことあるいはないものねだりを早くもはじめている。時間があるから「ひらやま」に依存しないで、チームをつくればよいだけの話である。

それにしても、ワールドカップであれ、オリンピックであれ、すくなくとも代表チームの存在にむらがっていると「めしを食える人々がいっぱいでてきた」というのは、悪いことではないのだろう。メデイアはなにかそういうひとたちが、サッカーの世界を動かしているような、思いをもつのだろうか?

反町氏が北京オリンピックに日本がいけるかどうかの鍵をもっていることだけは、確かであって、これからだというのに「収穫は勝ったことだけ。勝ったのにがっかりしている」などというものではないだろうに。

06ドイツワールドカップのときのように相手が、ブラジルでもなければ、オーストラリアでもないわけだが、ジーコの考えで構成したその考えがだめなのか、選手がだめなのか?そこがどうなのか?本当に、そこを、まずはJのクラブの指導者がどう考えているのか、そこに必要なら変化がなければ、なんかどこかで見たようなサッカーを、反町氏もわれわれの前に見せざるを得ないのであって、まずは「そこが検証」対象、で、次に反町氏の、ポリシーというかチームのイメージが、われわれの前に投げ出されて、「われわれも」「なるほど」と腑に落ちるということが、必須になる。

そういうひとがいるということを知らなかったが、週刊新潮の今週号の墓碑銘に「生涯、将棋で自活した最後の真剣師大田学さんという記事がある。これも抜粋。
真剣師とは賭け将棋を生業とするもの棋力はあってもいわば裏のプロ
中略
大正3年横須賀で生まれた。将棋にのめりこんだのは復員後30歳を過ぎてから、と遅い。昭和24年から3年連続で日本将棋連盟主催のアマチュア名人戦の鳥取県代表になったが真剣師として名が知れたことを嫌われ連盟から予選出場を却下されるようになる。強い相手を求め、放浪を始めた。プロ棋士とも指しており、大山康晴に角落ちとはいえ勝利をおさめたことも、中略90歳を超えても将棋で自活していたのだ。2月21日大腸がんのため92歳で逝去「意識が薄れても右手をグーっと伸ばして指を動かしました」。最後まで将棋でした」(姪の立川澄子さん)上手の人と熟考して指し負け将棋を自分で研究しろ、大田さんの言葉は常識的だがその歩んできた道を思わせる、とある。

反町ジャパンはまだこれからだが、06年ジーコジャパンは「上手のチームとやって負けたのだから」そのことを選手もコーチも「自分で」研究する、ほかにないので、上手でもない、香港の試合などじつはどうでもよいのであろう。
李ちゅんそん選手は、日本国籍をとった帰化選手である。このあいだ川崎の仲見世にあるしたしい、在日韓国人のママの店で、ぐたぐた酒呑んでいたとき、「相川さんこの、い・ちゅんそんって選手知っているときかれたので」新聞情報しかしらないが、このあいだ日本国籍とったんだで、名前は読み方換えて、りただなりにしたようだといった、反町氏が、かれに期待しているということのようだ、それはそれでよいのだが、オリンピック予選で、日本対韓国戦うみたいになったら、韓国はこの、い・ちゅんそんにどういう戦いをしかけてくるのだろう?李選手は、そこも考えたのだろうか?国籍は変わっても、名前は変わらないよね、とそのママが言った、そのことに気概というものを感じて、この駄文のなかでも、李ちゅんそんとした。
(この項終わり)