練習テーマの与え方

2003年3月14日(金)

今週は、日本学園は、金曜まで、4日、杉並も2日練習を行うことができた。
週単位ではどちらにも同じテーマを与えて、練習した。
そのテーマというのは、ワン・ツー・スリー。

以前、ベンゲルのアーセナルについて、やっていることは古典だが、「これをやるなと感じると」かならずやるという、その統一感におそれいっている、というような話をした。
この、これというのがワン・ツー・スリーである。

この練習をさせるときには、3対2がよいかと考える。
その3人の最初のならびを、図Aのように


○     ○      ○
1     2      3       (図A)

とすれば、

   X

○       ○
1      2  (図B)

図Bのように○1と2の、2対X(=バック)の2対1をつくって、ワン・ツーで、Xの裏を「とりにいく」仮に1→2なら、1が(パスアンド)ゴーをするわけである。
Xが普通のサッカーマンなら、1→2で、かつ1が、自分の裏をとりに走ってくれば、ボールを「見る」よりは、1にマークにやってくる。

2は、Xの1へのマークが甘ければ、ワン・ツーをもちいる、あとは、1はゴールを強襲していけばよい。

コーチングテクとして、1→2→1となって、そのさきは、ゴールへ『行け』である、だからこの3対2の練習でも、しつこく「3本のパス」でゴールへ行けという態度を崩さない。

しかし練習のねらいは、1→2→3→できれば→1すなわち、ワン・ツー・スリーだから、2に対して、1→2→1のワン・ツーを「ねらいなさい」けれどワン・ツーが「だめなら」すぐ→3にパスをあずけなさい、と指導する。

このときに2が、ワン・ツーを一応見ないで、すなわち、最初から、横をむいて3を見ると、激烈に怒る。あたりまえであろう「縦を見て、それから横である」それが目のつけ方の定理である。

ここが、わかっていない高校生は山ほどいる。

さてそれはさておき

     Y

○        ○
2       3     (図C)

2にうつったボールは、2→3となり、ここが肝要だが、2はゴーして、2→3→2を期待させる、うまい動きをしなければならない、うまい動きのことを、「へ」だとか「く」だとかいう表現で説明してやる、すなわち、ゴーしかし、つっきれではないのだ、とむしろYがそうか3→2にくるなと感じさせる、動き=ランでなければならない、誤解をおそれずいえば、ランがYにとってみれば、問題ではない、ランのあとの、ボールを受けにくる、方向変換とか急速ストップとかのことを、強調するわけだ。

そして、2と3がYに対して2対1を「スピードのなかで、しかければ」いったんは、1をマークしていた、XもYのカバーに動くから、瞬間1があいて、相川がグラウンド用語でいう「最初に走ったものが、走れば、ボールがやってくる、楽しみをあてに、どんどんあるときは、無だ走りになるかもしれぬ、パスアンドゴーをいつも、いつも、やるようになる」わけだ.(図D)




↑      →X      Y
↑              ○     (図D)
↑             2    
            /
          ○←
          3

ひどくかんたんにいえば、ベンゲルのサッカーの鍵は、ここにある。

ただし例えばこの練習を杉並の子にさせても、パスアンドゴーをしないで、ドリブルアップに行ってしまう子もいる、すると、その場面はどうなるか?最初は、何か『起こりそうな感じはする』しかし結局、まわりが「瞬間どう判断するのか、わからなくなり」「成功しかけた個人技をベースにした、判断が色あせる」

つまり高校生でも、パターンのなかで、瞬間的なフェイントはやってもよいものの、パターンを崩す、アイデアは、ノーサンキューなのだ、それが誇り高いプロを相手に、ベンゲル、彼等に、わがままはさせない、と相川はいつも見ている。

2003年3月15日(土)

赤坂をでるとき、雨が降っていたが、いかにも春の雨というにおいの、おとなしいふりかた、これなら日本学園対堀越のゲーム中止にはなるまいということで、外苑から、首都高速にのぼり、中央高速にはいる、八王子パーキングエリアで、おいしいたまねぎラーメンというメニューがあるので、「そこで」ランチと計画していたら、八王子PA、改修中でそのメニューななし、そこで八王子インターを降りて、北野街道にはいる。特別な蕎麦やではないけれど、大村という蕎麦やがあるからそこで昼食をと計画を修正、ところが大村も満員、というわけで、北野街道をどんずまりまで走って、そのまま頴明館までいってしまった、(こういうパターン、よくある)
頴明館というのは八王子の館にある、堀越の学校であり、サッカー場である。

堀越の関根先生、東京の高体連では名物先生だが「試合やってやろうか」というような雰囲気で、練習グラウンドもあけないという。
別に頭には来ないが「こういうおっさんは、やつけるしかないから」と思うが、だからといってゲーム前ことさらに何をいうまでもない、先週までの練習のテーマの「実行」というだけのことだが、「ボールタッチでたらめ」「戦術でたらめ」の、堀越を3セットで3―0で「やつけてやった」グラウンドがもう少しよければ、10-0の差になったろう、ここを信じるかどうかである。

昔、もう死んでしまったがプロレスの神様と言えば、鉄人ルー・テーズというひとがほとんどだろうが、もうひとり、カール・ゴッチという人がいて、この人は伝え聞くところによれば、晩年まで、ボールペン1本でどうやって人を殺すかということを、毎日かんがえていたというわけだ。

その顰にならえば、サッカーコーチも「どんどん、どんどん、必殺技の数々を、チームに」「ねりこむ」ということが仕事であろう。

先週練習した、テーマはワン・ツー・スリーとアウトサイドのクロスである。
アウトサイドのクロスのほうは1度だけ「ここで、使える」「だろう」という場面があったが、高校生、ふつうにシュートしてしまった。そのことはべつにかまわない。
もうひとつの、ワン・ツー・スリーは何度も、「きまった」

腹が減って、赤坂までもどって、リトルソウルと勝手に名前をつけた、路地裏のなじみの、韓国料理の店で、豚(三段腹)を食べた。
六本木通りをひとつ、アメリカ大使館よりの「どこかで」昼は勤めながら、夜は赤坂一つ木で、これまたお仕事のお姉さんと、世間話しをしているときに、どこそこでうまい昼飯の店をさがしている、というような話しになった。
彼女がやはり、この仮称リトルソウルの路地を横目で、見て「ここなら絶対うまい店があるにきまっている」と睨んだそうである、しかし、女ひとりで、はいっていくには少々勇気がいる、ということを言っていた。

別に危険な香りはないのだが、確かにいまどきの若い女性のいう「こじゃれた」雰囲気は皆無の場所である。
27才のとき、イランのテヘランで、クラマーさんが組織するコーチング・スクールに行っていた、ということは、たびたび言及した。

そのとき、73年であるが、10月か11月か忘れたが、主任コーチ(クラマー)は自分たち外国人コーチ(非イラン人)に、休みをくれた。

全部で20名以下の人数で、香港、日本、シンガポール、インド、スリランカ、バーレンなどなどの国籍である。

小型のバスをしたててくれて、テヘランから、エルズブルズ山脈のデマバンド山(テヘラン富士だといわれていた)(という名前であったと思うが)という、北にある山なみをこえて、カスピ海を見に行く、というプランであった。

カスピ海のそばにバブルサールとかいう名の、小さな、町があって、そこをぶらぶらしていた、私は、スリランカからきた、コーチ3人に「いいからついてこい」といわれて、迷路のような道を歩んで、まー言って見れば、パブのような場所にいった。

その当時のイランは1979年にホメイニ革命で追い払われた、シャーという王様の治世の時代であって、イスラムの教えのもとでの国ではあったが、ゆるい戒律のダブルスタンダードの社会で、昼間から、「場所によっては、アルコールが呑めたのである」
スリランカのコーチたちと、私は、そこでビールにセブンアップをまぜた、珍妙な、アルコールを呑んでいた。

今まで顔をだした路地としてはあそこが、人生でいちばん、とてつもない雰囲気の路地であった、それに比べれば、赤坂リトルソウルなどものの数ではない。

そののち、私は運命の変転のままに、シカゴ、ミシガン湖畔の会員制ヨット・クラブで食事をおごってもらったり、ミルウオーキー郊外のカントリー・クラブで、いわゆるパワーランチを経験したりもした、つまりは世間でいう、ハイ・スタンダードな場の経験もあるが、27才のときそのカスピ海のそばの妖しいパブで、呑んでいたとき「感じた」自分はアジア人の一種であって、アジア人として、「ここに」溶け込んでいる、という心地よい感触のほうが、いまもって好きなのである。

同じ頃に店のなかにはいってきた、若い韓国人夫婦が、産まれたばかりの赤ちゃんをつれてはいってきたので、店のスタッフの韓国人女性は総がかりで、キッチンからでてきて、その赤ん坊を、おもちゃにしていた。

そういうときの女性の顔に、満ちる、喜びの表情というものが、おおげさでなく、なにか人の世で不変のものを感じさせる、と見るのは、じぶんだけだろうか?
明日は千葉に行って、八千代とゲームである。
(この項終わり)