局面の戦術と勝敗の結果

2003年4月05日(土)

自分的には、春休みが終わった。

この土曜日、FC杉並が、レイソル青梅と練習試合というスケジュールがあったが、東京は朝からの雨で、それも早くにキャンセルとなった。1日寝たり、起きたり、というのは、昨日まで朝は、6時起きで1日開始という日々を、波崎でおくっていて、疲れたというのではないが、「気をはった日々をおくって」こういうように「雨の、休日」となると、10分寝ては、2時間起きてというような、うつらうつらの時間の過ぎ方になってしまって、マリノス対仙台のテレビもろくに見なかった。

今、チームが「どこにいるのか?」それが「わかれば、直す」わけだが「それがなかなかには、わからない」ゆえにゲームをやっていくわけだ。

それはそれでよいが、ゲームの連続のなかで、今度は、「こちらの、頭がしびれてしまえば、ただ目の前で選手が、走っている、というようにしか、目に映らない」とそういうことになる。
つまりは、コーチが、惰性に流れて、サッカーを狎れた目で見てしまえば、見えるはずのものも、見えない、目でみてはいるものの、心の中に、映像は結ばないということになる。

これではならじ、なのだが事実は、「そのように流れがち」である。

攻撃でも守備でも、結論からいえば、戦術的に、局面、局面で、「こちらが勝る」ということが自分の目標である、そうすれば、局面、局面の総和で「結果の勝利」というものが手にはいるはずなのだが、ほとんどの練習試合で、局面的には、だいたいこちらが勝つ、というように見える。

これをひらたくいうと、手も足もでない、状態のゲームはもはやほとんどない、というところまできているということだ。

例えば、昔読売で選手をしていた大淵(教育大→読売)が今監督をしている、平成国際大学と練習ゲームをしてもらった。

大学生は高校生相手だと、「なめて真剣にプレイはしないが、それを割り引いても、高校生にしてみれば、肌で感じる、同じ高校生同士のゲームとはちがう感覚を得ることができるので、意味がある」結果は1―2だったが、局面、局面の、「知恵のだしかたでは」高校生のほうが上ではないのかという感想もあった。
そういうことは、例え埼玉県リーグの1部である、大学とはいえ、本当はあるはずもないのである。
大学生のサッカーの質のほうが、高いはずであろう。

ここで「知恵のだしかた」という言い方をしたが、選手にもそういう(いったところで、わからない、から、知恵のだしかたを一つ一つ教えていくのだが)そこで相手の「心理をだしぬいて、こうするのだ」というとき、その「心理の裏」とかいうイメージが高校生に伝わっているのかという、不安があることを、正直感じるのが、この「今」と言う時代だ。

なるたけ、むずかしい言い方、表現、言葉を使いたくないのだが、相手の心理の裏をつけ、ということをもし「やさしく言うとしたら、どういうようにいうのか?」

それで、グラウンド用語(選手にわかりやすい、かつ短く感性に訴求する言葉)と、理屈の言葉とは使い分けている。
問題は、グラウンド用語は、コーチ→選手へのコマンドを表す言葉だが、仮に、選手同士が、サッカーを語るならば、そこで用いるはずの言葉は、グラウンド用語か?ということである。

グラウンド用語は、コマンド→行動の変化を促すための、言葉ではあるがいわば符丁だから、もしそれを立ち止まって「仔細に吟味したら、矛盾していたり、ダブルミーニングであったり」おかしなことになることも多々ある。

「あせるな、だけれど速くやれ」というようなこともグラウンド用語だろうが、『言われているほうは、よくわからん』ということだ、だがそう言いたい局面と選手の心理状態をコントロールする必要性はわかる。

試合を離れて、サッカーをいろいろ考える際には、グラウンド用語はむろん使わない。

どの業界で使う言葉であれ、概念であれ、古語であれ、最新語であれ、コーチの「ひらめき」であれ、古典の体系であれ、なんでもありで、全体も局面も考えていく。

そういうコーチにしてみたら今行われている、イラク戦争はかっこうの教材である。

戦争では、相手にこちらの兵力がそがれたら、その局面で負けて、かつ個人の命は失われるが、ゲームでは、負けても、命をとられるわけではない、だからサッカーは戦争だと言いたい人がいるのもわかるが、それはどうかと思えるものの、コーリン・パウエルが『米軍の補給線が延びて、(マスコミが)それは米軍にとって不利になるのではないかと』言う質問をしたときに、パウエルが「そんなことはまったく心配ない、これ(米陸軍は)われわれが、きたえにきたえてきたからだ」と言ったとされている。

準備に準備を重ねてきた、という意味だろう。
この程度のことでは、ばたばたしないぜ、というパウエルの自信の表れだ。

そういう準備に準備をかさねる、という人間的な行為に対しての「評価」を日本の社会では、しないのではないか、という直感的な心象を私はもつ。

高度なデジタル機器を兵器にくみこんで、破壊力そのものがイラクの兵器と違う「から」アメリカが今戦争に勝利しつつあるのだと言いたいむきもあろうが、それらを「使いこなす、レベルに兵士をひきあげるのも大変だろうな」という思いも、私はもつ。

例えば、何年のことか忘れたが、名古屋で、台湾航空の最新鋭エアバスが墜落したことがあった、台湾チャイニーズのパイロットがコンピューターによって、プログラムしてある、航空機の着陸プロセスをなんらかの理由で無視して、マニュアルで(下降しつつある機体を)機首ひきあげを図った結果、機体が垂直姿勢にまでなってしまったからだと記憶している。

瞬間、瞬間にコンピューターを道具としてコントロールできるかどうかは人間の練度にかかっているわけで、パウエルが何を指して「彼等をきたえてあるから」と言ったかはむろんこちらが勝手に推測するだけなのだが、それにしても、兵士(選手)をきたえる、ということがまずすべての出発点であるわけだ。
つまり、行きつくところは、最少単位の「個」の練度を「あげる」ことになるわけだし、さらにいえば、訓練がほんとうに、個をきたえあげていっているのかという、見極め、これが大事だろう。

というのは、どこかの週刊誌を昔読んでいて、今やいつつぶれてもおかしくない、スーパーダイエーの某管理職が言っていることを「いいこと言ってるね」と記憶していたことがあったからである、それは企業というのは、マネージメントとオペレーションに分かれると、そのうえで、オペレーションとはなにか「相手を叩き潰す力」だと確かに言っていた。

おいおい、ダイエー今や、叩きつぶされそうじゃないのと半畳をいれるのはやめよう。

そうではなく、指導者というのは、現場でほんとうにそのいうところのオペレーションを担う、個(の社員、兵士)が「練度があがっているのか」なにをもって、測るのか?また少し全体の結果がでれば、これは一億国民の総力をあげた結果だとか、全社員が火の玉になって、あれこれとか大言壮語につながって、ただそれだけということに、行きつきやすいからである。

戦争における戦術については語る資格もないが、サッカーでは、コーチは、先に述べたように、攻撃でも守備でも、局面、局面でいかに、こちらの側が採用する戦術が、うまく機能して相手に戦わせない、相手の力をそぐ、かということを朝から晩までそれこそ考え続けているわけだ。

それで、ひとつの戦術ですべてがうまく「いく」わけではないということを、日常的に体験することができるのが、スポーツコーチの醍醐味であろう。相手が、こちらの戦術の弱点なり、欠点を、反転させてきて、ついてくれば、こちらは、そのことを察知して、戦術変更を選手に下知しなければならない。選手はその戦術変更に、適応できなければならない。

多くの場合は、ここで適応できないで、今まで局面、局面で、優位にたっていたのに最後のある大事な局面で「こちらが負けて」そのことが、試合全体の勝敗ということで、こちらの負けということもあるのが勝負の不思議なところだ。

と、いうのは自分の場合、局面、局面で「勝てるように、チームを準備していく」そのうえで「上に述べたように、チームの経験としては、局面、局面での勝利が60%、70%、やがては80%にも到達していくその途中で、試合結果は負けている、という(練習試合)もいくらでも経験する、経験していくことにあまりあせらない。

で、最後は、局面でも圧勝、結果も出した、と、そういうことを好む。

ところが好むと、好まざるに係わらず、『局面では、こちらがまったく相手に相手にされない』しかし『試合の最終結果はこちらが、勝った』というような体験がまずないということだ。

つまりは不思議な「勝ち」はあまり経験しないということでもある。

不思議な「負け」というのはあまりないわけだ。局面で、負けていれば、最終の結果も普通は負けである、負けに不思議さがない。

局面で負けていても、最後に勝ったという不思議な勝ち、それにあまり縁がないということを言っている。そういうコーチである。

イラクの共和国防衛隊Republic Guard「まったく局面では負け続けである」「おかしいね、イラク、こんな程度の軍隊で、アメリカに喧嘩ほんとうにうったのか?」「だとしたら戦前、アセスメントという意味ではまったく、何をしていたのか?」それとも『一発逆転をねらっているのか?サダムよ、ほんとうにそれをねらっているのか?』一発逆転の意味、戦争では、ひどいことが起きるというわけである。
(この項終わり)