サッカーの楽しみとは?

2005年5月02日(月)

東京は、総体の地区予選、世田谷と杉並・練馬あたりが、いっしょにくくられて、67チームから10チーム、都大会進み。
おそらく同じようにして各地区からの下からの、勝ち進みチームと関東大会でどこまで勝ち残ったから総体予選免除のシードチームになるかは無知だが、そういうチーム加えて、おそらく、50―60ぐらいで都大会だろう。

4月29日(金)総体の地区予選無視して、習志野と練習試合やりにいった。
1-3で負け。

4月30日(土)地区予選@駒沢人工芝、東京学園ってどこにあるのか?無知。
29日こちらは習志野にきているので、同じ日東京学園対都立玉川の1回戦、誰もモニターしていないのだが、傲慢ではなくて、そのかわり習志野の試合で、少し、いやだいぶ「このままなら負けるぜ」と危機意識うえつけさせているから、多分OKで、5-0だか6-0だか忘却だが勝って、

5月01日(日)の相手は、立正東京、前日、30日、駒沢で、立正対成城学園こちらの試合のあとで、やっているのだが、どうにもモニターするの苦通で、前半で席たってしまった。

だから戦力分析もしていない、結果8-0。

フラットやって、みっともない日本語だが相手の高校生「サンド、サンド」って叫ぶチームである。つまりリアクションサッカー。

それでも前半は1-0で、こちらが、じぶんたちのサッカーやれていないので、その旨ハーフタイムに伝えて、またしかるべき交代選手いれて、結果後半のはじまりぐらいで、3-0、4-0になっていったわけだが、そうなったら、立正の、高校生、ひらきなおって、本能的に、サッカーやりはじめて、別に、「蹴れるし、ドリブルもできるし、」つまり、いまどき、高校でサッカーやれるやつ、というのは数十年前とちがって、そこそこはみんな、サッカーへたではない、という、ように見えた。
つまり指導者が、エゴ強くて、「俺のサッカーで、かたせる」と思うのはよいのだが、フラットとプレスに、依存しすぎ、なによりサッカーの楽しみとはなにか?という古典を理解していないのではないか?
新聞読んでいたら、チェルシーのモウリ―ニョ(監督)が、練習でボールぬきのトレーニングはまずやらない「そうだ」「選手からボールをとりあげるのは、いかがなものか?」と言っているそうだが、むろん日本語に翻訳されているわけで、どういうニュアンスで彼が言ったか?意味はわかったようでわからないが、高校生にいうのは「サッカーというボールゲームで」「ボールゲームをうまくやる」ために「ボールはどうあつかわれなければならないのか?」という言い方を言う。

おとなが、おばかでおまぬけな、フラットを、選手に強制したり、「サンド」は良いけれど、自分たちがボールもったら、「どうすべきか?」「なにをもって、本当の意味で攻撃なのか?」「動くとはどういうことなのか?」そういったサッカーの古典などただの一度も練習で登場させないのではないだろうか?

一番ひどい例が試合前のアップで、人工芝の駒沢での東京学園でも、筑波駒場での、立正にしても、こちらのシュートを見とれている始末である。

アップのシュート練習など古語でいえば、帝国海軍の横須賀沖における連合艦隊、観兵式みたいなもんで、コーチの側だって、そこでいくらすさまじいシュートがうなりたてて、ゴールに吸い込まれて行くから、といって、実戦で、同じようにはならない、ことなど百も承知、いわばシュートではなくて、キック練習だときめている。

キックが強く蹴れなければ、サッカーは成り立たない、というのは古典であるし、それを忠実に、選手に学ばせているだけのことで、そこを見て、「こいつらキックがきれいに蹴ってくる」と観察できたら(それだけで、評価全部できるわけではないが)一応チームとしてはまともだと、思って良いわけである。その先の評価の基準(ではボールはとまるのか?とかパスは正確なのかとか?スピードがおちないとか?)こそが、むろん、サッカーらしいかどうかということであるわけだが。

あんまり良いことではないのだろうが、弱い相手に勝つそれも大勝したりすると、父母は大喜び、ということになるのだろうね。この調子で、いわゆる強豪高校にも勝てるだろうとか、勝ってくださいとか、いうことになる。
まーそれはよいのである。
一般ピープルに彼我のサッカーの専門的な差異をああだこうだと説明することはない。

死んだ、 山口瞳などは「自称、野球通」のようなことを文章にしたり、していたが、今は、マンションだとか早稲田大学のセミナーハウスが建っている、安倍球場で、早稲田の野球選手のそれも昔の選手のことを具体的に、「ああだ、こうだ」と言っていたりした、あるいは後年、国立に住んで、都立国立高校の野球の活躍のことを「ただ、それがよいとかわるい」ではなくて「今年は投手のなになに君の、こういうところが良いから、甲子園に行くだろう」みたいな書き方をしていたりもした。
山口さんの野球の知識が的を得ているのか?いないのか?そこはわからない。

サッカーでもそういう親がいるが、「ひとはどういう見方をしてもそれは、自由だから」別にどういうことを「口はしろうが」今は気にならなくなった。ただ「そうそう」なんて素人の言説に、同意してやったりすると、そこで終っておけばよいものを、こちらの神経さかなでするエリアに「はいってきてしまう」やつが、またけっこう多いというのも、世の常だが困ったものである。

自分が医療機器の営業やっていたときだって、ドクターへの口のききかたは、どんなに親しくなったとしても「先生、こういうように考えてよろしいですか」っていうへりくだりのオンパレードであって、それは当然プロへのリスペクトをベースにしているからである。

FIFAが、北朝鮮での対日本戦第3国、無観客試合ということを言って来て、さー対する「きむ・じょんいる、いったいどうでるか?興味しんしんである。
われわれは悪くないのだ、悪いのはレフェリーであって、という今はやりの、エクスキューズ(言い訳)である。北京でも上海でも「悪いのは、日本の歴史認識で」というあれと同じ。

盗人にも3分の理だという論法を応用すれば、北朝鮮の言い分もわかる。
イラン戦のイランペナ内での、接触プレイ、とられてもしかたがないとは見た。どうしてあれをPKにしなかったかと推定するに、北朝鮮の選手が、倒された、という見方でなくてイランの選手とぶつかったというようにも見えた。

ながいあいだサッカーやっているほうは、要は、何を言っても無だとおもっているから、レフェリーのやりかたを例えば4人制にしてみたら、とかビデオの導入とかというそういう考えにはくみさない。
誤審もあり、でサッカーをやっていく、今後もそれでよいではないか?である。
天下の暴論かもしれないが、そういうように、計算しきれない人間の要素があるということを、含めたもので、サッカーはよいのではないの?ということである。
ただなにがいけないかっていうと、レフェリーをインスペクトするということではないのか?インスペクトすなわち「管理」である、管理なら、管理で、ではインスペクターに正当にかけあったら、その審判を忌避できたり、降格させたり、ということがなければおかしいだろう、インスペクターが権威になってしまう、英国スポーツの本質である、おのれの良心とルールの遂行に、のみ依拠するということではなくて、インスペクターに対していわばひらめになるのが自明だからである。

おのれのルール解釈に従い、あるプレイにPKを与えた、それでどこが悪いのか?である。
(この項終り)