李国秀との出会い
2003年5月08日(木)
李国秀(と、その時は知らなかったわけだが)「高校生」李が私の前にあらわれたのは、横浜駅西口のハマ・ボウルというボウリング場の1階のサッカーショップ、国際スポーツであった。
その最初のやりとり、まったく何も記憶してはいない。
ただ、今となって思えば、当時、神奈川県国体選抜チームのコーチをしていて、それこそ、その高校生の素材が良ければ(と、自分が信じたら)彼が属する高校チームが1回戦負けだろうが、まったくいわゆる名門・伝統校であろうが、なかろうが、選んできては、好き勝手に、チームを造って、国体に出場させていたのであるが、ある年のそのメンバーのなかに、李と親しかったやつらがいたのだろう、その情報をたどって、私のところにやってきたのだと思っている、で、最初のやりとりは別に、「相川さんのいう、うまい選手は誰ですか?」という話しに、なったことははっきり覚えていて、神奈川朝鮮高校も見たりしていたので、名前も知らないが、そこの10番なんかいいんじゃないか、というような話しになったときに「へー、あんなやつがうまいんですか、そんなことはないです」よというやりとりはした覚えがある。
そのときは私は、国体の神奈川県選抜チームの準備がメインの仕事で、国体は夏の終わりに関東予選(8チームで1チーム落ち)そして秋の本番ということで、4月あたりから練習会を開いたり、「どこかに評判の選手がいる」と聞けば、その高校の練習を見にいったりという日々であった。
神奈川県協会理事長の鈴木先生がまとめられた「国体サッカー少年の部、選抜方式採用後の神奈川県選抜チーム成績」というデータを見ると、私は、第26回の和歌山国体の時点で、コーチということになっているが、これはおそらく記録間違いで、自分の記憶では、第27回の鹿児島大会でコーチということだろう。
そして読売と契約したのも昭和49年(1974年)1月だから、昭和47年の鹿児島、昭和48年の千葉のコーチであったことは確かだが、所属は「読売」ではなかった。
コーチ相川のその次に、読売クとあるわけで、このころは読売とは無関係であったわけである。
昭和48年のメンバーのなかに、鎌倉学園の渋川や、相模工業大学の大江とかがいて、彼等が、横浜の中区あたりで、李のお友達ということであったわけだろう、ついでに言えば、この昭和48年が1973年で、自分は国体選抜の準備を途中に、9月27日にイランのテヘランへクラマーさんのコーチングスクール参加ということで、いわば敵前逃亡をした年であった。
だから李が横浜西口に来たのも、48年ではなかったかと思う。
神奈川国体チームをそのころ日本サッカーリーグの2部にいた読売サッカークラブと練習試合をさせにいって、当時、事務局長という肩書きの笹浪さんという人が、「おまえのチームはなんかおもしろいサッカーをするんだが、読売に来ないか?」というオファーがあったわけであったが、それもテヘラン行きで、中止になった。
1973年12月31日に、当時は羽田国際空港にもどってきたとき、「さーどうやって生きていくのか?まったく計算はたたなかった」石油ショックで、首都高速横羽線は、がらがらで、横浜の実家にもどる途中、自分の人生の、将来の見とおしのなさと、日本の経済の失速からくる閉塞感、などが、自分を萎縮させていたと思う。
1974年の1月に早々と、小田急線のランド駅から山を昇って、読売クラブに行って、サッカースクールのコーチをやってくれと言われて、それを引き受けて、即であったかその次の週であったか忘れたが、グラウンドに行ったら、そこに李がいて、「なんで、ここにいるんですか」という話しになった。
それはこっちのせりふであったが、とにかく当時フランツ・フォン・バルコムというドイツ系オランダ人が監督で、ある日そのバルコム氏が(ユース担当に昇格?)した私が、高校生に練習させているときにグラウンドにやってきて(直接口をきいたことはなかったわけだが)いきなり「ミスター相川、明日私は用事でトップチームの面倒を見られないのだが、代わりに練習を指揮してくれ」と言ってきたわけである。
で、それから途中省略はするが、とにかく自分はトップチームのアシスタント・コーチになってしまった。
それでその頃の読売は、古河だ日立だという、大学の名門早稲田だ、中央だのOBで固められている日本サッカーの主流から見れば、2部、クラブ、それに初期のクラブ立ち上げのころ、教育大学(今の筑波大学)のOBが指導陣を形成していて、推察するにその教育大学OB連の将来図と、笹浪氏の思い描く将来図がクロスすることはなく、退陣していて、「読売はクラブシステムを目指すんだ」という、笹浪氏の激が常に、読売をして、その主流からすれば蛇蝎のごとく嫌われていたわけである、いや嫌われてはいなかったろう、無視されていた。
バルコム氏はいつも自分に愚痴をいうわけだ。
「なぜ、優秀な選手が自分のチームにこないのか、例えば碓井(当時は日立がランドで練習をしていて)碓井がはいってきたとき、バルコム氏もうなっていた。相川、こういうやつを呼んでこい」というわけである。
「それは、かれらが、ほんとうにプロとして、世界にうってでようとしないからだ」というのが彼の口癖で、あった。
相川さんの腹のそこでは、「どうやって、プロになるの、道すじが見えない」のに挑戦しろとは、言えないわな、という平均的な日本人の発想しかなかった、だから後年、どこかですでに言ったがアントニオ猪木が「この道はどこに行くのか、踏み出せばわかる」とかなんとか言ったときに「確かに道すじが見えない」というのが実は生の本態であって、というのは、世界がやさしく、なにごともギャランテーして、私なら、私に迫ってくれるわけではないからだ、後年はそのバルコム氏の言ったところがよくわかるようにはなった。
バルコム氏は、結果、日本の当時の優秀選手を供給するシステムからはほとんど無視されて、しかたなく、松木だ李だという高校生もトップにあげた。そして、1974年の、ミュンヘンワールドカップ見学もかねて、読売をドイツ遠征につれていった。おそらくそのときの体験や、感性に訴求した「プロサッカー選手とはなにか?」というイメージが当時17才であったろう、若い読売の高校生に生涯の道すじをあたえたものと思える、丁度当時27才の自分が、テヘランでクラマーという、いわば事件にであったのと同じことである(が、当時はそんなことを考察したわけではない)
途中省略するが、李はそのあと読売をやめて(やめても、要は契約だからまったくなにも問題がないわけで)キャロライン・ヒルで、香港プロになった。
私は、日本式も加味して、4度目の挑戦でやっと、読売を1部にあげた。
李は、香港からもどって、いつのまにか、横浜の街のクラブを神奈川リーグ、関東リーグと勝たせて、それがいつのまにか全日空になって、2部にまでやってきていた。
そのころは今度はこちらが読売をやめていて、全日空のゲームをモニターしてくれというので、閑散とした、大宮あたりで「これはいったいなんだ」というようなへぼゲームを見ていたりした。
その次に桐蔭での10年があって、(それはまたおいおい記すが)
この2003年の5月に、厚木でフットサル施設を経営するということになった。
30年が経過したわけである。
きょう5月8日に地鎮祭を終えた。
あとはしゃにむにであろう、今の所は、私の人生よかったかわるかったかもない、とはいえそうそう残りの時間もあるわけではない、ないのに、いくらでも仕事があるというのは、ひょっとして、しあわせなのかもしれない。
サッカーの世界の末席にいられたからだろう
(この項終わり)