悲しき北朝鮮


2005年6月08日(水)


ハーフタイムにサッカーしろうと、のジャズ歌手、どこかでテレビ見ているらしいのだが「どっちが勝つのか、わからない」ってメールはいった。

わたしの応え。

北朝鮮は「かつ気がない」みたい。日本は勝つ力がないみたいだから、幸運まかせのようなゲームになってきた。

一言で言えば「膠着状態になるぞ」みたいに戦前予想して、わたしからしたら「やっぱりね」というようになったのが前半で、解説の松木が「もっと動け、もっと動け」ってくりかえしていたが、それもあたってはいるのだろう、しかし要は、「ひかれて」かつ「北朝鮮からしたら」「東京での試合の分析の結果、こいつを押さえろみたいな」かんがえぐらいはあるだろうから、その守備をいかにやぶるか?もともとくふうはないチームなので、「それを根拠に膠着状態を予想したわけだが」そのとおりになった。

ただし赤紙やら負傷により、鹿島、元鹿島の選手が攻撃の要所にいる「すずき」「やなぎさわ」「おがさわら」ということで、あの程度の攻撃変化だけはつけられた????

多分、暑さのせいか?
後半にはいっても北朝鮮は、一発ねらい「だけ」がサッカーのようで、要は、「勝たなければいけない試合に」「勝とう、というサッカーのようには見えない」いつもやる、前半の途中で、9番をいれる、珍奇な共和国式?で交代選手を浪費している、その考えもふくめて、やっぱり鎖国していた影響出ている。

その例が、1-0のときの北朝鮮、それこそ外国人コーチが必要だぜ、というのは、東京での1-1から、クロスが、キーパーのところにきて、ボールがふくにしの前にころがりおちた場面とそっくりだからである。

高校生にだって、相手のフリーキックのとき最初にラインを深くひけば、こぼれが、丁度相手がセカンドをねらうポイントにおっこっていくわけだから、それはとても守りにくい、で、同じことが起きた。
テレビなので、その「もとが」フリーキックなのかどうかわからなかったが、もしそうなら、ボールをとめにいかないで、ラインをあげてひかないうちに蹴られたわけだから、蹴ったいなもとがえらい、
おおぐろがしつこくからだをよせて、相手が、力強く遠くへボールを、とばせなくて、とびこんできた、やなぎさわにおしこまれた。

自分からしたら東京での、ふくにしにしてやられたプレイにダブル。
つまり反省がない。
と、偉そうだが、大人のサッカーだったら、そこを克服しなければ、なにをしてもむだだろう。
子供だと、それも成長の糧だと、いいわけできるが。

しかしそのひとつの致命的なプレイの前、北朝鮮、要は、偶然にしかチャンスメークできない、それも「これからきみにだすぜ」というパスばかりで、それではみんな読みきられる。
だからその致命的な場面が「なかりせば」と考えても、さきにはいけない、ということだろう。

チームのなかの声、ほんとうに聞いてみたい、というのは、テレビの画面でしかわからないのだが、北朝鮮の国家社会のありかた、当然、サッカーにだって、その影響を及ぼす。

北朝鮮の内部でしか、王様あるいは英雄である、あるいはそういう序列のどこかにあぐらかいている、そういう選手もいそうだ。
だから、攻撃に変化とか、良い意味での「功を求めて、でしゃばる」とかそういうプレイは見えない、北朝鮮労働党とか人民軍の序列がそのままでてきているような、サッカーに見える。

序列が高そうな、ハーフが、あきらかにサッカー的に「こいつばかじゃないの」と思えるプレイしてもそれが、リアルタイムで、批判されていそうもない、これじゃ「だめだ」悲しき北朝鮮だという由縁である。

グラウンドにいなければ、断定的なこといえないのだが、もうひとつ北朝鮮、後半オフサイドトラップ、かけだしたのかしら?

北朝鮮、よせばいいのに、だってそれ以外の「ファウルじゃないのと、アピールしながら倒れるプレイも、まずはレフェリーにとってもらったためしがない(東京での試合もそうであった)」「北朝鮮よ、悲しいかな、この世界は公平ではないのだ」「北朝鮮では英雄かもしれないが、」「あんたが日本のタックルにあって、倒れても、レフェリーは、ふーんで、おまえの演技へただね」みたいに「ながす」だからオフサイドトラップだって、かけにいったら「だめなのだ」

そのだめなことをやってしまった、というように見えた。

2-0のときの北朝鮮のベンチやらラインの「やられたあと」の反応はいかなるものであったのだろうか?
あれが日本だったら「トルシェも強調したように」「良いか悪いか」「オフサイドだオフサイドだとぎゃんぎゃん吠えたろう」
オフサイドトラップは別に、フラットだけの専売特許ではない、しかしわたしからしたら「フラット」でオフサイドをとりにいくというのは、確かに、相手がオフサイドである場合もあれば、どう表現したらよいかわからないが、なにか「フラットでオフサイドをかける、という、共同の詐術のなかに、みんなを=観客も、副審も、まきこんで酔いしれる」というようなところがある。

つまり、ぼくたちはフラットである、「いやこの瞬間、微妙に(ライン)あげたでしょう、このことの(重大な)意味とか技巧が」「あんたわからないの」となにか(いやらしく)といかける、そういう雰囲気を、グラウンドの場、に醸し出す、で、とくに日本人なんか、その他の社会的な局面のもとで、多勢が、ただしい、百万人といえど「われ行かん」は「ない」ほうだから、「はいはい、そうですね、あなたたちはオフサイドをフラットでとりにくるんですね」「わかっています、わたし(副審=昔で言えばラインズマン)も、あなたたちの見事なトリックとかタイミングを見巧者として、とりましょう、わかっていますよ」みたいに共同正犯なっていく、という。

だから、私見だが2-0のときのおおぐろのとびだしは「良かった」

なにが良いかといえば、2-0でこれで試合が決まったとかそういうことでなくて、相手がフラット(かどうかわからないが、)オフサイドトラップ「かけて」それをこちらの「足のはやいフォワードが、一瞬の事により」破る、副審は、これも瞬時の判断でこれはオフサイド、あれはオンサイドと、決める、そういう、レフェリーの醍醐味があってよろしい、ということをあらためて確認できたということがよかったのである。

どう考えても、高校のローカルな大会などでは、それがオフサイドかオンサイドかというその場の判定などでなくて「どこそこのチームはフラットひいている」「それをオンサイドだと、したらあとでもめるな」「いじめられるな」みたいな、世界で、終始していて、ばかばかしい限りのことが、起きているからだ。

だってなにがばかばかしいかといって、「とびだして」いく若き、フォワード(このよでこんなに貴重なものはないのに)をそうやって殺して喜んでいるわけだから。
トルシェの呪縛がまたひとつ、とけたと、見た。
(この項終り)