ジーコに学ぶブラジルサッカー
2005年6月23日(木)
電波障害で、ボールも選手も2重に見える、テレビに見切りつけて、夜中の赤坂の街に出て行く。
兄夫(ぴょんぷ)食堂、24時間やっている。
昔は、だれもこないしったん(食堂)だったのだが、TBSの安住アナウンサーと、杉田かおるが飯くっている場面とか、にであったように、TBSで働くひとやら、タレントに愛されるようになると、赤坂では商売繁盛するメカニズムなわけだ。
別に「とくべつ、ました(おいしいです)」というわけではないのだが。
はいっていったら、韓国メロドラマやっているので「サッカーやってないのか?」と朝の4時に、別な場所をさがしても、どうかなと思いつつ、いったん外に出たら、韓国のお兄さんがおいかけてきて「「サッカーやってますよ」と、「この客は逃がさない」という気合をいれて、おいかけてきた。
で、韓国クラブのお姉さん二人がおしごとのあと、食事とっている、韓国クラブのお姉さん二人が、日本人の客と計三人で食事とっている、だけのしったん、で、すでに0-1の場面から、しかたがないから、生ビール2丁、海鮮ちじみ、じんろのこびんを結局たのんで、勉強開始である。
疑問の第1:
日本はどうして、あそこまで「タックル」とか「よせ」とか、言葉はよいが、ボールをとりにいく「こと」をしなかったのだろうか?むろん結論言ってしまえば、ブラジルの選手は「とくに、この代でなくても」「スピードがあって、かつみんなが逆とり名人」だから、「行けない、よせられない」ということなのだろう。
しかしどう考えても、「そこ」を「なんとかしなければ」そのうえで、「あまり」「調子こいて、相手のあしもとに飛びこめば」余計にブラジルのボールもちにスピードあげられる「から」ひきぎみ(文学的表現すぎるが)だ、いや「中盤コンパクト」だというならわかるのだが、自分の目で見ていたら、良いか悪いかは別に「よせていって、足だしていくの、なかた」だけで「しゅんすけ」なんか、大人に小学生がとりついているかのように、しゅるしゅる、しゅるしゅる、ぬかれてくるというより「あし」がでない。
それと同じ視点で、ブラジル人が日本にどう守備してくるかを「観察すると」そこが表現むずかしいのだが「多分」行けると個人的に思えば、感じれば、よせていっては、過烈に「あしを出す」で、そこで日本選手とられてしまう、というかそこの1対1の「闘い」で、ボールをもってのスピードがやはり、日本人「遅い」ねーだし、その逆にブラジル人、ボールをもって、動くとき「速い」ねーである。
これは批判ではないのだが、川渕さんがジーコに代表をまかせるときにそのロジックとして「トルシェ」には組織を教わったから、今度は、選手の、個々の能力(という言葉使いかは忘れたが)をあげるために、「ジーコ」にチームを託するのだと。
いたしかたないのだが、その初期設定目標は、うまく行っていないよね、と思える。
ひとつの例が高校サッカーだって困っているのだが、中盤で、パスコースが「なくて」相手に「お尻むけて」もらいにくる、味方にパスつけてよいかどうか、という議論がある。
ブラジル選手はそうやって、日本選手を背負って、ボールを足元に、受けても「ほとんどとられない」で、そのあとどうボールは「走っていくか」も観察すると、別にバックパスしないわけではなくて、バックパスになるのだが、いわば、最初に足元に来たボールをキープして、いわゆる、「間」をかせげるので、バックパスそのものも、それを受けるブラジルの選手が「その次のパス」を日本にとって「いやだね」といえるところを「ねらえるだけ」の「おちつき」をバックパスに、意味つけているように思える。
その逆に「日本人」のバックパスは「なにか、もとへもどる(こういう表現で、サッカー経験者はわかるであろう)」だけの、別な言い方すれば、相手を背負っているところで「余計なことしたら」「とられちまうぜ」「だから、はやく(臆病に)ほかのやつにあずけてしまおう」みたいな感じがして、「おいおい、そこに、もどして、どうなるんだよ?」と、「つっこみ」いれたくなるパスばかりである。
この差をうめたいからこそ、川渕さんは、ジーコに、託したかったにちがいないのだが。
実は、バンコックでの北朝鮮との試合の後半に、ベンチ情報というのがあるでしょう。
日本の側を取材した堀池だと思ったが、ジーコは「もっと、ボールをまわして」というようなことを言っていますと「解説の松木にあげた」
もっと、ボールをまわしてと、言うからには、わたしの耳には「簡単にボールをとられたらいけないからボールキープ(ボール・ポゼッション)」(しながら、ゴールをねらえなのだが、急いで結論言えば、このキープしながらも、どこかで縦あるいは急ぐ、あるいはスピードをあげる、みんな同じこと言っているのだが、ここが民族的にできないというかへたくそ)なのだ、とわたしなど思っている、思っているが、ジーコは、けっして、勝負、勝負で縦、縦へいけということを言ったわけではないのであろう、しかし日本民族は、0-0で前半終った、さー勝たねば、と「なったら」「ジーコのようには、まずは、考えない」
だから「松木」も「ジーコの後半にむけての指示」の「意味など」「理解もできない」あるいは「理解したのだろうが、すでにてんぱっている、松木にしてみれば「理解しようとしないで」早急に縦へいけ、「そのために動き回れ」という色に染まってしまっているので、
意味はわかっていないアナウンサーの問いかけにも、まったくかみあわない、コメントを発して、我田引水してしまった。
自分も、日本人だから、あの試合、で指示するとすれば「いまから、どうスピードあげるか」というようなほうを言ってしまうと思う。
だけれど「ぼけミスによって、ボールを失うのもだめだ」と言ってみれば「いくら言ってもしかたないが」「じゃーどうせいっていうんじゃい」と選手に言われそうなことも言うかもしれない。
だからむしろ「勝たねばいけない一番」で、ジーコはやはり王道(ボールキープ)を行きたい、それはよいが、いかなジーコといえども「ボールまわしているだけでは、ゴールを奪えない」ということは知っているわけだからいってみれば「もっとボールをまわして」「で、どうするの?」とあるいはボールをまわしたら「それで、日本に、好機がどうくるの?」というところまで、「押さえて指導しているはずだから」そこをいつも知りたいと「思うわけだが」松木の、問題意識のなさゆえに、またその関心への答えが得られなかった。
なんでこういうことを書くかといえば、ブラジルのこの日のサッカーも当然、「ボールキープ」に依拠している。
しかし、それを言えばジーコジャパン「も」ボールキープのはずである。
それで「差」がある。
だから「ボールキープ」=つなぐサッカーで良いはずだが、その「差」がなんであろうか?
それをジーコは知らないのではないだろうか?
例えば、ロナウジーニョ、「いつもいつも、おもしろいパスを出すわけではない」しかし「あせって、あるいは無理な姿勢から」「まわりをどう使うかをまったく無視」して勝負ボールを出す、ということだけはない。
かつ、自分が「ひとを動かす」だけではなくて「ほかのやつが自分を使いたければ、そこでは、ランしてくる」2-1になったとき、シュートをうちにきたのは、彼で、ついでにいえば、マークしていた、サントスのへぼタックルは「どういうことだろうか」
それはともかく、類い稀なる個人技をもってはいるが、そしてそれを出すが、しかしチームプレイのなかにいると、見える。
つまりいつもユニットのなかでプレイしているように見える。
そこへ行くと、ミスパスだらけの「なかた」は他の日本人を信用していないように見える。
「しゅんすけ」はどこに顔出しても、ひ弱なプレイで、ユニットそのものの、スケールがどこか「ミニゲームみたいな」そういうように見える。
さて、さきほど言った「差」について記述したいところである。
しかし、評論家ではないので、感じているその「差」を実現したいがゆえの、職業が、コーチであることを思えば、「ブラジル」を真似するのではないけれど、しかし、その「差」は埋めなければ、闘い方、あるいは、闘いのその日に、「どうしても埋め切れない」差があるがゆえに、コーチの知恵も要求されるわけだろうが、差について語っても無意味であろう。
川渕さんが「ジーコを批判して、評論家としてなりあがっていきたいやつがいるようだが、けしからん」というようなことを言ったそうである。
その対象が誰だかもわかるような感じがする、しかしそれはどうでも良い問題ではないだろうか?
協会がジーコを選んだ理由を自覚して、恬として恥じず、であればよいのではないだろうか?
NHKのラジオ聞いていたら、どこかの女性が「早朝のこのゲームを見ていて」次ぎのようなコメントをよせてきた「王者ブラジル」と「互角」で、むしろ「圧倒していたのではないでしょうか」だって。
いや、一般ピープルは「そんなものであろう」
ありがたや、でよいのであろう。
さて、ブラジルは2-1になったところでも、2-2になってしまうところでも、明らかに「攻撃をしない」というか「無理をしない」ほうに傾いてもいた。
むろん、それは昔からである。
負けなければよいわけだから、2-1になって、露骨ではないものの、ゲームコントロールさえすれば、OKね、というサッカーになった。
それでも美しく、かつ強いサッカーであった。こういう業界の末端にいることの有意を覚えさせてくれる、光であった。
(この項終り)