オーバーコーチングの問題


2004年8月01日(日)

コーチング日記、読んでくれていただいている、あるコーチから私信をもらった。
さしさわりのないところは●で、このかたの思うところを、そのままに掲載して、私の、所感を相川◎に述べた。


●小学生のコーチでわたし自身がある課題にぶつかっています。
それは、子供の自主性とオーバーコーチングの問題です。
最近、湯浅さんのコラムなどを読むと、STREET SOCCERを奨励しており、 子供たちのオーガナイズさせることの重要性について説明されております。
また、 オーバーコーチングの危険性も訴えています。

相川◎
湯浅もバカじゃないから、ストリートサッカーという言葉に寓意をこめているのであろう、ご存知のごとく、街は、東京でなくても(例えば佐賀の鳥栖でも、現 役の警官が女のこをさらいにまわっていたりと)路地裏でサッカー、子供がやれる環境などめったにない、公園でも「球技禁止」というようになっていたりし て、本来の意味でストリートサッカー「やらせろ」と彼も言っているわけではないだろう、だとすれば、ストリートサッカーという言葉イコール「自然にボール と遊べ」サッカーぐらいの意味だろう、それに多聞、対置されて、コーチ(=大人)によって、練習方法も、勝つための戦法も、よく練り上げられたサッカー が、置かれているのだろう。

今に、始まったことでなく昔からコーチがよく議論していたアイデアである。
湯浅も「ねたが切れた」のではないか?
湯浅の言う、オーバーコーチングとは何か?という問題も置いて、大人が子供に介入して、子供をマインドコントロールして、スポイルするという問題について は、「そうではない」ほうが希少だろう、なにをいまさらである。

●実際の子供たちを見ると、運動能力、スキップ、ケンケン、ジャンプなどできない子 も多く、(1-3年)ボールのパスゲームなどすると、手でのパスにおいても、15分間1回も触れない子がいます。(けっして少ない数ではありません。
結果、数名の子がパスを交換している。) これは、4-5年でも似たような現象があり、オフザボールの動き、フリーランニング ができない、敵のブラインドでヘイヘイと声をだす、
よって、サッカーとしてのパスゲームが成り立たない状況になっています。

相川◎
現場のコーチは、もう何年も前から、一言で言って、表現があたっているかどうか「運動能力の劇症的低下」という現象を感知しているわけです、
例を出すのに苦労しない。
硬式野球部の高校生のボールの投げ方が、野球素人の私から見ても、「おかしい」子が、何人かいる。つまり身体をやわらかくつかえない、腕が棒のようになっ ていたり、からだが回転しない、というように。
あるいはサッカーでも転倒して、顔面をそのまま地面にぶつけてしまうというケースとか。

私が、わからないのは「そういう子でも」「成長していって、むろん点をつければ、Cだという運動能力ではなくて、受験技術だとか、企業のなかの身過ぎとい う部分の能力ではAをとって、」「生活は多聞立派にしていける」しかしどこか釈然としない、それでいいのかというところです(といってもかれらが、成長し てまた死んで行く前に、こちらも死んでしまって、結果がよくわからないというのが難点だが) 人生の「ふしぎさ」です。

あるドクターに言わせれば「人間の生理的本質は、この百万年のあいだ、かわっていない」という、これを、どう解釈したらよいのか
現場のコーチが劇症的な運動能力低下児童のゆくすえを心配したところで、それは杞憂にすぎない、ととってよいのか?
逆に、もっとストレートにいえば「自然には、えさをとれない子供」は「本来は、いきてはいけないのだが、文明が発達した環境では、生きていけるのだから」 何を心配するかといえば、このように発達して「自然から離れてしまったかのように見える」日本社会が、良いも、悪いも、このさきいったいどうなるのか?
そういうように心配したほうがよいのか?
そこもわからないのです。

●わたしは、ある程度オーバーコーチングを犯しても、パスゲームの基本を教えようか と思っています。
単純に、相手の影ではボールをもらえない。スペースへでないとパスが容易に受けら れない、出せない。周りの状況をいつも見ていないとパスに詰まる。足では、FIRST  TOUCHを大切にしないとPRESSにまけて、次のACTIONへ移れないとかを いろいろな局面で教えるべきかと考えています。

相川◎
ここで初めて、オーバーコーチングとはいったいなにか?といういわば定義を問わなければならないわけです。
で、結論をいえば、技術も戦術も、そのバリエーションは無限とします。
その無限さをまず、コーチが追求しているだろうか?
そう問題を設定します。
多聞コーチは追求していないと思います。
というのは、それがコーチの手抜きではなくて、世の中のこと、だいたいすべてに平均化とリスクテーキングを避ける、という、考えが定着して、しまったから です。

DNAの構造のなかに、もはや使われていない、配列がたくさんあって、それはなぜか?という問題の答え、知らないのですが、どうやら、いきものが、この宇 宙環境に、適応しておのれの遺伝子、をトランスファーさせていくときに、ある配列は「不要」で、ある別な配列の(その結果である)生命的行動こそが、いわ ゆる「適」であるということなのかもしれません、それと同じで、例えばわたしたちの世代ならば、クライフのテクニックは華麗なものでしたが、今は、そのテ クニックが、なくても、サッカーを成り立たせる、ことができる、ということをコーチは知っているわけです。
クライフひとりをコピーしてつくりだすようなことを「してしまう」リスクテーキングがあるわけでしょう。
むかし枚方に、誰も覚えていないぐらいの、宇宙人佐々木という選手がいたわけです。
ひとりの整形外科の先生が丹念に、この佐々木をつくりあげた。
だから、どうした?ということに歴史的な評価は定着したのではないでしょうか?

今、それと同じことをやれば、チームは勝てないで、崩壊してしまうかもしれないそのかわり、そんなリスクは避けて、 華麗なドリブルは「ないが」からだを いれて「ボールキープ」はできる、そういうようにしなさいと、多聞協会の指導方法は、かかれているのではないでしょうか???
平均化がわるいわけでなく、効率というものを追求していけば、90分に1度どころか、10試合にただ1度ぐらい現われるプレイを、現実化することに、コー チがこだわるよりも、例えば、普通のとめかた、普通のキックのしかた、普通の相手とのコンタクトのしかた、そこらへんを、追及したほうが、てっとりばやく チームができるというような、ところではないでしょうか。

だから、サッカーにおけるコーチも「わざ、戦法、無限である」「この子の将来も、無限の可能性に富む」とは、思ってはいない、ということではないですか。
その反対に、無限であると信じている、コーチも、その選手=子の、才能ということはまず、初期設定だと思っていますから、鈍である、しかし根気はあるがゆ えに、生涯に渡って、無限の天辺を「行かせる」というわけにはいかない、ということ「も」ある。

コーチはからだがきかなくても、別にどうということはないが、選手は「からだがきくかぎりが」選手である、ゆえに、鈍だが根気あるという、子を無限の天辺 には連れて行かない。
また、生まれつきの才があるとして、その子には、天辺無限である、という接し方をする、そういう接し方をするコーチが例えばボクシングにおける、亡くなっ たタウンゼントエデイさんである、というように、相川さんなんかは信じています。
だからもしそういう子がいれば、チームを作るのではなく、個を作るという方針に変えてしまうのが、コーチでしょう。

●そうでないと比較的運動能力のある子も、スピード勝負以外でのSKILLができない。
パスゲームを理解しない。という心配があります。
彼らは練習ではドリブルでいつでも勝てるし、とくべつフェイントを覚えなくてもい い。
また、味方の選手に信を置いていないので、ドリブルへいく、フリーランニングして もパスが来ない。
これが悪循環になっているのではないかとの懸念しています。

相川◎
ここは、そのとおりでして、高校のコーチの中学生を見る思いはつきつめれば、そこらへんでしょう、要は「運動能力に」「まかせて」「くふうをしない」ブル ドーザーだろうということです。
だからサッカーがうまいというのは、ほんとうに「この子まだ中学生じゃないの」という「ちびで、ほっそりしている子に多い」なぜならそういう子は小学生の ころから「コンタクト」に活路を求めるわけにはいかなかったからでしょう。
しかしそういう選手に肉食べさせて、ある程度の筋力つけさせて、極端言えば筋肉増強剤のませて、という環境はまだ、わたしは知らない(どこかでやっている かもね)

●わたしは、ある程度子供に任せるとしても、現状では、SKILL、経験がないわけだか ら、何をどうやってというところはわからないではないかと思います。
そこはあえて、オーバーコーチングであったとして、ボールのもらい方、出し方のタ イミング。
どういう状況でなら、ボールをもらえるか、 あるいは出せるかの状況を設定した練習は必要なのではないかと考えています。
4-5年になれば、BODY SHAPEや、FIRST TOUCHにもう少し気を遣って、ドリブルだけの判断しかできない状況から進歩して欲しいと思う のです。

相川◎
結論だけ言えば、もう1度、「無限の変化がある」わけですから、コーチが「こまめに教えたこと=オーバーコーチング」を選手が逸脱して、もそこでコーチが 気悪くしなければいいわけでしょう。
しかし気を悪くする人間が多そうだね。
とくに日本人はね。
師と弟子という縦社会にもっていくから。 また、弟子が師を「超えない」という暗黙の恭順を、サッカーだけでなく、日本の社会に連綿として続くコードが今もあって、だからこそ一応人間は対等である とされる、欧米社会にいって、選手がむこうのコーチから閉塞感は受けないという、ことがあるのでしょう。

また、こまめに教えて、受けるほうに、その器量なければ、それもまたオーバーコーチングの欠陥でしょう。
だから野球の野村のように、最初は無視だというわけです。
少なくとも野村さんは、コーチが「言えば」いいわけではないということを熟知している人物である。
オーバーコーチングなんて言葉に意味をおかず、要は、選手が「聞くのかどうか、選手は聞けばよいわけだから」選手が聞く耳持てば、コーチは言うのでしょ。

●最近、子供たちが小学校でも、こうしたクラブでも「考える」「自主性」をテーマに 語られる場面が多いのですが、それを強調したアメリカの小学校が学級崩壊をおこしたように、われわれも秩序ない組織はある意味「放任」の一面をかかえてる のではないかと思います。
判断、応用力はある程度の経験と修行が必要なのではないかと思っています。
そういったことで、湯浅さんのコラムはすっと自分の頭には入ってきません。
オーバーコーチングと自主性の問題、相川さんはどうお考えになりますか。

相川◎
湯浅は、まだ、日本社会をどういう方向にもっていったらよいのか、例え一評論家としても、腹がすわって考えてはいないからでしょう。
本人は、ドイツ人になろうとしている。
しかし生きている社会は日本社会である。
衆生の多くは、能率に興味もなく、地縁血縁を大事にして、アメリカでなにが起きようが実はどうでも良いと思っている、それでもなお子供の世代には「個性」 とか自主性とかを「つけたらよいよ」というぐらいに思っている。
それは企業で(昨日までは、和だ、滅私奉公だといっていたのが)国際競争のなかで、そんなことが、屁のつっぱりにもならないので、にわかに、能率である独 創性である、というようなことになってしまってきているからでしょうが そのいわゆる変化に全面的な信はおいて、はいないだろうが、なにかのきざしは感じている。

だから、全否定ではないだけでしょう。
そういうように日本社会がどうなるべきか?
そこを見すえて「自主性」とかいうことを主張するのはよいでしょうけれど、トルシェのサッカーのやりかたのお先棒かつぎをした、サッカー評論家のなかには 「日本人の村社会的精神には、彼があっていて、」というような問題たてるやつがいて、それはそれで、彼の主張だからよいですが、そこまで言うなら、もっ と、勉強してくれというのが、相川さんの思いです。
だから、それが解決ではないが、すくなくとも相川さんのところでは、こう言うように言っている。


親はいつまでたっても子離れ「しなくていいですよ」、親は死ぬまで、子供に介入して、それでもって、生の意味を得る。政治の世界を見よ。いい年したおやじ に、もっといい年したジジイが、家業の持続を求める

自主的な判断をする修行なんかしても日本社会から、ぶっ飛びますよ。職業人になるのに、10年20年の修行が必要なのは、今も同じではないでしょうか?世 界のどこでも尊敬されるのは、実業という部分での、腕の良さでしかない。

個性的才能は伸ばすとか、伸びるとか、いうよりすごく、もし本当にあるなら「まわりを殺しても、生き延びていく」そういうものです。中途半端に「おのれに 個性的才能ありやなしやと悩む」奴にろくなやつはいない。

物事「と」物事を表現している表出をわけましょう、バーチャルなものにいかれやすいのが若いということです。また本当のこと(=物事の本当さ)を隠した り、受けとめられないというキャラをもつのが日本人です、アメリカの民主党の大会で、アメリカは富めるものと貧しいものとに分離した社会になってしまっ た、と少なくとも(どうせなにもできないでしょうが)率直に物事を見る勇気をアメリカ人はもっている。

なにが一番おかしいかといって、日本の教育プログラムがいちばんおかしいわけです。だから余計な悩みをもつのでなく、学校を注視するしかないのでしょう。

村社会日本の掟と国際社会で生き抜いて行く、人間はいかにあるべきか?そういう問題を学校はいかに、処理していると思いますか?われわれ以上に良い知恵を 持っていると思いますか?湯浅が国際社会での、ものさしを日本人にあてよというなら、湯浅が撃たなければならないのは当然学校プログラムということになり ます。

そこを言わないなら、湯浅のやっているのは、ただの日銭稼ぎということになります。つまりどうでもいいのです。子供が子供を殺したりしているそうい う物事を、発言しているだけで、あたかもその解決をその発言者もめざしているかのような錯覚を与えるのが、今と言う時代ではないでしょうか?サッカーを発 言しても金にはならないが、そういう子供殺しを発言すれば、いつのまにか良い生活ができる、というそういうことを、評論家は了解していると思います。

で、問題は解決したのかね?いやまったく。サッカーも同じです。現場にいるからこそ、バランス狂ったと言うことも含めて、評論家ではいなくてすむ、という こと になります。
(この項終り)