オシム監督の存在
2006年8月10日(木)
オシム監督という、存在がどういうものなのか?
例により、メデイアからやってくるものしかほかには、わからない、ただJEFのマネージャーのうばがいさんは、その昔の、読売の選手だから、いつかのときに、浦安で高校生の試合やっていたら、彼が、やってきて「やあやあってな」ことになったことはあるが別に、とくに親しいわけでもないが、それでも、うばがいさんが「オシムに惚れ込んでいて、講演などでも」「オシムのサッカー観、世界観、あるいはオシムが練習で、発揮する手腕」そういうものを聴衆に話すらしくて、その講演会録のようなものを、ほかからもらって、大いに参考になったということはある。
私の、素朴な印象も、「ひさしぶりに、ほかのコーチが思うところ、感じるところ、行うところ」をウオッチしてみたいなと思わせる、存在だな、というものである。
だが、そのことを話す前に、少しワールドカップの決勝までさかのぼって、ここはリッピのことを、言わなければならないだろう。
ワールドカップ、すべての試合を見たわけでもないし、むしろサッカーフリークのひとたちより、も見た試合は少ないし、ましてやイタリアでもフランスでも、だれが、どこのポジションをやっているなんて、そういう知識も持ち合わせない。
ただし、この部分は、オシムが夜中の3時過ぎに、起きだして、ヨーロッパの例えばCLなどのライブをテレビで見ているなんてことを、どこかで読んで「おれも反省して、そこまで、世界中のサッカーに通じたほうがよいな」という気持ちには、いまなってはいる、だがそうすると、自分の自律神経はめちゃめちゃになるだろうね。
睡眠不測というか、睡眠の乱れで死んでしまう。
まあそれはともかく、ふつーのひとでも、イタリアのハーフはだれそれ、アルゼンチンのだれそれが好きだと、言う時代になって市また。そう言われても、相川さん、「すんません、知らない」と答えるしかない、実情であった。
それがなぜという説明もあるのだが、そこは省きます。
ただこういう問題設定があると思える。
リッピでもフランスのまゆげがげじげじみたいなドメニクでも、ロナウジーニョが「どんな選手か」実物見て知ってはいる、「よいときも」「悪いときも」
彼らが、本音では、ロナウジーニョを「どう評価しているのか?」コーチは知りたい。
いや、それはロナウドでもよし、ジダンでもよい。
リッピはジダンをどう思うのか?みたいな、そういう頭の訓練。極東の果てにある、サッカーマイナー国のコーチは、そうやって、自己訓練する。
メデイアにより神格化された、例えば、ジダンであれ、ロナウドであれ、そういう過剰な表現で、言われる選手像は、よくわからない。そうではなくて「そいつらとグラウンドで戦う」という話になったら、その先頭に立つ、リッピでもだれでもそのういう監督たちが、ジダンでもロナウドでも「どういうように、自分のチームの選手に伝えるのか?そこを知りたいが、知ることはないから、想像する。
どう考えても「ジダンはうまいから」とは言わないと思う。
そんなことは、ただ、「見たまま」だから。
そうではなくて、ジダンを「無力化しなければならない」で、いろいろ考えるが、その方法は別に、ジダンを英語で言えばRespectしろとは口が裂けても言わないだろう。
その代わりに「あの野郎をやつけてこい」と言うに決まっている、口が汚ければ、ロッカールームで「あのアルジェリア移民のらくだのりやろう」を「ひいひい言わせてやれ」といって選手を送り出すだろう。
また、チームを編成する時点で、リッピは、自分があとから思いついた、考察では、いわば自分のチーム、ユベントスから、キーパーに、ブッフォンを選び、ストッパーに、カンナバロを選んだ。
誰が見ても、彼らが、「優れているからでしょ」といってしまえばそれまでだが、いくら守備戦術が時代とともに、変遷していこうが「ストッパー」と「キーパー」が、最後の、万里の長城で、あることは、サッカーの古典であって、リッピは、かれの戦術を理解させ、かつ、それを忠実に励行してくれるはずの、「部下」をそこに使ったということになる。
というように、自分は「考えた」リッピの考え、そこはわかりやすい。
カンナバロそのひとは、公表175センチだが、高いボール にも強い、アルゼンチンが監督メノッテイでカンペオンになったときのスイーパー、ダニエル・パサレラも、背は低かったが、サージャントジャンプは抜群であって、かつメノッテイ好みの闘将であってというようなこともあわせて考えれば、結局は、ここは、変わらないのだ
1試合だけで、判断はできないが、中澤、宮本みたいな、いまどきの子風の「われ関せず」人格では、そもそも無理であったわけだが、昨日の、「とうりお」のほうが、闘う、雰囲気をかもしだしている。オシムはそこははずさない。
リッピも、そこをはずさないが、ジーコははずしてしまった。
それから、カンナバロの身長(175センチ)だけでは、一抹の不安があったのか?193センチのマテラッツイをインテルから呼んだといっても、そこには最初は、ミランのネスタ(187センチ)も、いたわけで、リッピは、マテラッツイの「何を買ったかそこはわからない」ついでにいえば、古巣ユベントスではカンナバロと、ならぶストッパーは185センチのテユラム(フランス)なのだから、それよりももっと長身ストッパーでなければならない、現実を、リッピはあたりまえのことと、認識していたのだろうと思える。
ヘッドが攻撃側であれ、守備側であれ、ただ長身であれば、競り合いに勝つということはないのだが、イタリアがフランスに追いついた、ときの、マテラッツイのヘッドが、現実を、つきつけるし、本当の「犯人はだれなのか?わからないが」ブラジルがフランスのアンリにヘッドをきめられたとき、マークは188センチのアンリに168センチのロベカルが行かなければならなかったのが、ロベカルどこかに、行ってしまっていた、というような、うそか本当かわからない解説があるのだが、もしアンリにロベカルがつかなくてはならないとしても、それは、いささか無理があるのでは、と思わせる。
リッピは、カンナバロを中心に、フラットをひかせて、ラインでの守備の「行くか、待つか」の判断を、おそらくは、カンナバロに託した。
やりかたは、別にワールドカップ仕様ではなくて、ユベントスで「いつもやっていることであったろう」カンナバロも、別に、代表に呼ばれて、急に、なじまなければならない守備戦術というのではなかったろう。
リッピは、それからミランからガットウゾを呼んだ。
わたしもイタリアに行って、イタリアのコーチが高校生に「今から、やるシュートは、デルピエロ・シュート」だなんて、名前をつけて、左45度くらいから、シュートを日本の高校生にさせるのを、見ていて「ああこういう言い方のほうがいいね」と思っていたりしたことはある、コーチがうまいなと思った。
子供たちは、理屈を言われて、サッカーをやろうと興奮するのではなくて、自分も「なかたのようにプレイしたい」イタリアの子供なら「インザーギのようにシュートしたい」と感じて、プレイしたがるのだから、名前がつかないシュート練習など、ほとんど無意味だといってよいのではないか。
そしてその伝でいえば「ガットウゾ」の「ように、守備をする」選手になりたい、という子供がいたほうがよいし、そう導いても(これは、その子供の性格に大いに、依存するから)だれでも、ガットウゾにさせるというわけには、いかないものの、サッカーは、ペレやらジーコのようなプレイヤーに「だけ」門戸を開いているスポーツではない、という意味では、大事なことではないだろうか?
こりゃ「だめだ」と切り捨ててきた選手の中に、日本のガットウゾが「いたのかもしれない」
攻撃と守備の違いはあるが、森島を選んだ、トルシェは慧眼であったが、ジーコは、凡才だということになろうか?
とにかく、ガットウゾがどういう仕事をしたかは、普通の人なら「よく走って、よくスライドする選手」だぐらいにしか目に写らなかったかもしれないが、コーチの目には「こいつがいないと、フラットであれ、なんであれ、守備戦術うまくいかない」と印象に残った。
リッピが国内で相手にしてきたのも、メデイアの言い方によれば、カテナツイオである。それを、じぶんの言い方をすれば、フラット、どの程度かわからぬが、プレシングという守備戦術なわけだ、(基本的には、その考えで、ただしひいてしまうときには、ここまでラインさげるか?と思えるほどに、ぺナの、内側までライン堅守みたいなところが、あるからそれを、カテナツイオだというのだろうが、例により、カテナツイオ「やれ」といっても、それはナンセンスな言い方になるわけで、カテナツイオという言葉を使うよりも、フラットとその前の、ハーフやらトップの守備行動をどうするかという、いいかたのほうがサッカー的になる)だからリッピにしてみれば、どんなチームを引きうけようが、守備は、かくかく「やる」そのうえで、自分のコーチとしての戦略として、攻撃では、あいてのフラットと、プレシングを「どう破壊するか」を主張できなければ、プロとはいえないし、ワールドカップに臨むまえから、攻撃のテーマは決まっていたはずだ。
で、推察するに、その攻撃の、テーマを「やるのに」二つのことがあって
ひとつは、ワントップ(当然、らしい、ワントップを指名する)
もうひとつは、ウイングハーフ(名前はどうでもよいが)(これもまた、らしいウイングハーフを指名する)
そういうことになる。
で、攻撃では、あたかも3トップに見えることがあるが、相手のラインは、イタリアの、ウイングハーフを自分の、ラインの外側の選手が、見るのか?それともラインの前に置くハーフに見させるのか?そこが悩ましくあるのとまた、このウイングハーフに走るスピード、走るスタミナ、ときに、インサイドにはいることで、パスだしにまわっても、うまい、というようないわば、要件を満たす選手をつれてきたということにあるように思える。
それがユベントスの、カモラネージであり、ウイングハーフの後ろ縦にいる、サイドバックもまた、ウイングハーフと区別がつかないほどに、はやくて、頻度が高い、攻撃ができて、かつ守備もするという、要件が、必要で、彼の前にいるウイングハーフがあけるスペースにこれまた何度でも、ランしなければならないわけだから、同じくスピードとスタミナが前提の、センスが必須で、ファビオ・グロッソなどの、選手を重用した。
そうやって、右と左のサイドライン沿いの、攻撃のシナリオを決めたのだと思える。
当然攻撃の主モードも、縦、縦である。いやここの言い方は、むろん荒っぽくて、相手がたぶんイタリアのサイドからの、縦攻撃に、ひいてしまえば、中盤でのパスまわしもある、そこには、ユベントスではない、ミランの、ピルロやらローマのトッテイを、つまりほんもののイタリアブランドの才能人を置く。しかしリッピは、そこからゴールがはいるとは、かんがえてもいないかのようだ。ただ、ピルロの判断でチェンジサイド、トッテイの判断で、中央からのパス攻撃、ドリブル攻撃「あるのはよいが」しょせんは、得点は、カウンターから、だと思い込んでいるふしがある。
あいてのフラットのオフサイドとラップがききにくい、システムだということもいえるから、私からしたら、サッカーの基本じゃないのという思いであった。
ハーフは、彼ら自身はほれぼれするほどに、冷静で、ほんのわずかの、守備の穴をつける、いわゆるハーフである、あるが、かれらが、ほとんど攻撃のシナリオをお膳立てするというのではない。
その点がジダンのフランスとは違うような気もした。
ジダンのフランスは、ジダンが、最終パスを出すことが期待されすぎているといえるか。
フランスは例えば、リべリのような、ランが速い、選手をもっているのだが、ジダンが彼らを生かす、というようなそういうチームではないように思えた。
なぜか?アンリの生かし方はジダンは、しっくりくるのだろうが、リべリをどうしたかったのだろうか?かんぐれば、決勝戦、ジダンはそこらへんを、うまくやれない、ベンチに切れたのかもね。
で頭突きになったが、わからないのは、なぜ頭突き?ということでしょう。奨励したいわけではなくて、切れたら「殴る(いちばん)多いのが、ひじうち)、蹴る、踏みつける」というなかでどうして、頭突きなのだろうか?そういえば、フイーゴもオランダ人相手に、頭突き食らわしたのに、見逃し、レアルマドリッドは、そうなのか?
まーそんなことはどうでのよいが。
そうして、リッピはいかにもイタリアらしいサッカーをやりきって、勝った。
そこでオシム氏である。
メデイアによって、トリニダードトバゴ戦の前に、こういったという。
日本は敗北から教訓を学んできたと世界は考えていると選手に言ったそうだ。戦争に負けて、原爆まで落とされて、しかしそれらの上に立って、経済の世界で、先進国の仲間いりをしたと、だから、サッカーでも敗北に学んでということであろう。
こういうように、世界の中の、日本あるいは日本人ということのポジショニングを、選手にだけでなく、そのほかの日本人にも「意思してくれ」という、外国人は貴重ではないか?ただしおそらく、選手は「なんのこっちゃという」「感性」ではなかったろうか?」そこにオシム氏の誤算があるのだ。
歴史意識とでもいうのか、そういう観念をもっているような、選手など、まずはいないだろうね。何をオシムに言われているのかさっぱりわからなくて、たりらりらんとしている、連中の姿が目に浮かぶ。ただし、たりらりらんなのはメデイアの連中も同じで、歴史的な事柄に対する、価値観などがおのれの生活にくりこまれているやつなどまずはいないだろうに。
どうして、テポドンのことで、騒がないで、サッカーのこと口にしてるんでうすかねーって、あるサッカー関係者がいっていたが、そういう意識さえ、まれではあるのが、今の日本だ。
オシムは、自分の実人生「から」何かをみつめて「彼のサッカーと、サッカーマンの人生をといているのだ、と思える。」
すばらしいことではないのか?
だが平成能天気社会の日本では、サッカーマンだけでなく、おそらくオシムの考え、理解もされないのではないか?
悲しい話ではある。
そして、昨日試合を見た。
まだ、まったく評価できるわけではない。
練習がまだ浸透していない、積み上げもない。どう考えても退屈な相手である。この試合から何を言えばよいのか?そんなことはオシムにしたら、わかりすぎるくらいわかることだろう。
まだ、時間がかかるのである。
チームを作るという作業は。(この項終わり)