コーチの「とことん」

2004年9月07日(火)

(承前)

前回は陸上選手瀬古のコーチ、早稲田陸上の名物監督、なくなられた中村先生を、大西先生がどのように語っていたか?本からひきうつしで、それって、相川の主張に反するじゃないのと言う声もあろうが、いくら奇人のたぐいのコーチ稼業の人物でも、「草をこすりつける、土食べる」というのはあまりに強烈だし、どう考えても、ジーコには「いったいなんのために、おれがそんなことしなくちゃならんのだ?」と言われるに決まっているわけで、そこらへんをどう考えるか、ヒントとしてあげてみた。
もう1度、同じ部分をコピー;

「早稲田競争部監督へ就任した際、初対面の部員たちに、諸君らのためなら私はなんでもできると言い放ち、いきなり地面の草をむしるや、自分の目にこすりつけた。土を食らったこともある。」で、そのことをふまえて、大西先生は早稲田の最終講義で、こういっている

「合理的な方法や科学的な方法、わたしが今言ったような知性的な方法だって、そのことをうーんといっしょうけんめいやる、そやけどそれで勝てると思ったらまちがいです。そこで勝てない所がスポーツの妙味なんです。私はそう思うんです。
中略
やっぱり中村清先生のように、あんなおかしな人がワーッとこうやって、クアーっとこうなって、いっしょにガーッとやって世界一になりよるんです。そりゃなんだということですが、これはほんとうにおもしろいことです。

ここのクアーとなって以降、読んでいて、まったくわからないでしょう、わかったような感じにはなるけれど。

自分など、箱根駅伝で中村先生が「都の西北、早稲田の杜に」って伴奏車で、がなっているのをテレビでは見た世代だから少しは、わかる。

大西先生自身、はたから見たら「おかしな人だとおもわれていたのに」そのひとが「中村先生はおかしいと(むろん敬意と愛情をもって)言う、で、相川さん自身がいまだ中村清になりえたか?大西先生になりえたか(こたえはいまだしであるが)それは未明であるが、ヒデイングだって、やはりなにかあったはずで、さーこれからジーコはどうするのか?そこだけに視点を集めても、これはなかなかおもしろいテーマではあります。

で、これを例に出す前に、わたしは「とことん」といういわば、キーワードをちらっと、あげておいたわけです。
わざと、サッカーと関係のない、医学の世界のことを例に出して。

話し相手が「なに、医者がとことんやってくれたら、がんも治ると、いうんかい?」とつっこみいれてきて、むろん「がんなおらないでしょう」ただわたしが言いたかった、ことは、そのケースで言えば、そのガン患者は、ガンに負けて死んでいく、死んでいくからには、こころやすらかに死んでいけるか、それは他人がとやかくいえるものではないということは百も承知だが、いわば直すてだても、直すことを担当するひとも、彼、彼女から見たら、「この人、本気でとことんやってくれている」と見るか、そうでないか、魂がおちつくかどうかで、それを「とことんやってくれて、はじめて魂に、なにかが到達するという」それを言いたかっただけです。

人間はまったく鈍感といえば鈍感で「相手から、そこまで(とことんレベル)いわばつくしてもらって」こちらのこころが感激するというしかたがない生き物なのですが、逆に、わたしなんかが、選手のほうだとしたら、「そこまで(コーチが)尽くしてくんなくたっていいぜ、うざったいぜ」と思うタイプで、要は疑りぶかいやつなわけです。

しかし多聞大半は、自分のまわりにいくらでも、友人、親戚、無関係な澁谷交差点をあるく無数の一般ピープルと人間がいても「だからどうした」であって、自分のために、土くらった、中村先生的人間を、頼るのでしょう。
そして、その人物が「力、出せ」と叫ぶと、「ガアーッとなって」というわけです。

例の、女子レスリングの浜口選手のおやじ、自分なんかも「ああいやだな、ああ恥ずかしいな、あのふるまいは」と、思う口ですが、どこかの新聞に「女性」の寄稿者が「いや、あのお父さんみたいなひと、自分を、守ってくれていいわ」と書いてきました。

そういうところは、本来「だれかに守られたい」という本態がある女性にはとくに支持されるかのようですが、男もないわけではないのでしょう。

ただとにかくスポーツであれなんであれ、結局最後は、選手のこころが「動いて」なにごとかが、成し遂げられる、ということはどうやら正しそうなわけです。

つまり人間は、情動の生き物です。

情が動かなければ、エネルギーが出ない。

ジーコのその点に関して、やれること、考えるに、それは土くらわないでしょ(だからいけないではなくて)、せいぜいナショナリズムに訴求するつまりは、ブラジル人も、日本人も、国家に忠誠を尽くすという思いというか情は、普遍のはずだというものましてや、その代表である「ゆえに」死力をつくすべき、というそういう理屈、それにもうひとつは「プロの誇りをどうするのだ」とでもいうようなそういう訴求の方法であると思われます。

で、わたしのわからないのは、
それはそれでジーコでなくても.用いる、いわば選手の「やる気、死に狂い」の心的エネルギーの引き出し方でしょう、それでよければジーコだろうとだれだろうとかまわない、ということになります。またその誰であっても、御題目みたいに、ジャパンのため、といえばよいわけだ。

中村先生とか大西先生はそうではなくて、なにかジャパンというより、日本人にしか、通じない方法なのだが、つきぬけてはいる。
で、どっちがよいのか?
そういうことになる。

そこがわからない。

むずかしいところですが、情動というからには、理屈ぬきに、いわば心が熱くなるメカニズムがそこに潜在的にであれ顕在しているものであれ、なければならないということになります。

マラソンの高橋がなんであんなひげおやじの小出監督に「ついていくのか?」そうかと思ったら、今度の女子マラソンの野口も会社やめてまで、ついていった、なんとかという監督がいる、浜口選手はおやじについていく、シンクロは「井村先生にほめられたほうが、メダルとるよりうれしい(まーマスコミのおおげさかもしれませんが)名前もう忘れたが、柔道で勝ったら、あの平成の三四郎古賀に抱きつこうとあらかじめ思っていた某女子選手がいる」女子の場合は、情動がでやすいメカニズムが当然、脳内にそもそも仕組まれている。

男子の場合はどうなのか?
普通にやっていればよいのか?
土食らうか?

ましてや国家代表なら、機能するかどうかは別に、普通に「お国のため」はいえるが、高校チームでは、それはない。

というところで、多聞、いろいろな指導者(コーチとあえて書かない)は実は苦労しているはずでしかも、この苦労は、かならずしも、コーチひとりで頑張れば、解決つくものではないと、つまりは社会のありかた、あるいは社会とその時代が男性に強いる、ふるまいやらなにかそういうものに強く規制されていくと思えるからです。

このことはいまだに、だから解決つかないで、放置してある、そんなわけで相川さんかならずしも、土食わない。
だがクラマーコーチは「土食う」コーチではあったと思います。

1973年のテヘランで、日本から派遣されたのはわたしと、ある大学の監督をされていた、某先生で、2人でいっしょのへやで3月も生活したわけですが、ある夜、この先生が、どこかでイラン人のコーチと会食してもどってくるなり「相川、自分はえらい熱があって調子おかしい」ということになりました。

むろんその先生ベッドに倒れこんで、で、わたしはその日はちょうど金曜日(回教での休日)なので、相談するにも、キャンプリーダーもいなければ、ほかの国のコーチもではらっているという状態で、せいぜいできることは、冷たい水で頭冷やす程度、それでも今や記憶も薄れていますが、医者がきて薬をおいていってくれた、そのうちこれもまた食事に外にでかけていた、クラマーさんが、わたしたちの部屋にきて「どうなっているんだ」ということになって、そのドクターが置いていった薬を見て、「これは座薬である」で「自分が、先生にいれてやるからはやくパジャマを脱げ」といいだしたのです。

なにしろひどい高熱なために、先生もうろうとしていて、ドクターの診断うけたあとも、そのクスリ放置してあったくらいですから、クラマーさんが、「自分がいれてやる」というのも無理がないほどに先生はくたっとしていたわけです、けれどさすがに、先生「いや自分でやります」と力ふりしぼって上半身起こして、まーうまくいきました。

なるほど、コーチはそこまで「やるのか?」と、若き相川さん、感じ入った経験があります。

多聞そのときわたしの情も動いたのです。

とことんやるクラマーさんを見たという貴重な体験をしたわけですが、煎じ詰めれば、情が動かされたわけです。

わたしは、どちらかといえば、情にさおさして、流されるほうで、それじゃ冷静にやっていけないので、理というか智というか、そっちをものさしにしてサッカー眺める訓練はしました。だから試合見て、興奮するのはせいぜい1年に1回、つまらんといえば、つまらん、昔は、サッカーっておもしろいな、と血が沸騰していたのが、いつのまにか、口で「サイド(バック)ボランチ、またラインっていうように」つぶやきながら見たりします。そうすると、攻撃側の「たまの運びかたの、その日のアイデアがいやでも伝わってくるからです」

で、当然へぼなチームは「またボランチ(で、どじ)またまた同じボランチで、どじ」みたいに見えてくる」しかしけっこうこのチーム強いですよというレベルはレベルで「そのどじが、見えにくいが」結局は、どじに等しい、「なにも起こらない」という見え方になる。

例えばジダン、いくらジダンだからといって、いつもいつも、相手に勝つわけではない。ただいえることはいつもいつも、「勝ちに行く」ので「ああこれは、あいてにしたらいやだわ」とそれはわかる。
すると、どうしていつもいつも勝ちにいこうとしているかといえば「いつもいつもボールを受けにはこない」と言うことに気がつく。
いってみれば「自分十分」という体勢確保というか(ポジションとって)、切り分けて、そのうえで「いつもいつも勝ちに行く」というように自分には見える。

そうではなくて、なんでもかんでもボールに触りにくるやつもいる、それも代表レベルで、それってちがうんだと思うが、まずこの議論はどこでも「きょとんとされる」自分の経験では、普通の中学生、ここを理解できるのがやっと高校三年になってから。 いや、われながら気が長いといつも思います。
(この項終り)