コーチの信条
2003年10月02日(木)
FC杉並は先週日曜日に、奥寺のところに1-4で返り討ちされた、見られなかったが、レポートではリスタートから3点、支配はしているが(という表現ではないが)要は押されていて、負け、ではなく押しているのだが、フラットを崩せず(崩せないだろうな、とは思っていた)では、そこだけ聞けば、世の中のフラット信奉者は「にやっと」笑うだろう。
崩せないだろうな、という私の戦前評価の、理由は、杉並の「弱いフォワード」「頭の悪いハーフ」ということを知っているがゆえで、むろん練習のすすめかたとしては、「フラット崩し」を、試行錯誤しているわけだ。
頭の悪いハーフ、ということは、何をいいたいかといえば、昔から言われている、「Coachingを受け入れる」かどうかという、選手の精神タイプに関係ありそうである。
コーチというのはおおむねは、唯我独尊で、「自分だけは、解決わかっている」というむきが「なきにしもあらず」ではある。
選手を「つぶす」コーチもいくらでもいる、そういうコーチをジョークの対象にした、話しをしだすと、止まらない、そういういわば、落とし穴、がスポーツの世界にある、というようなことも、選手やら親が、感じて、コーチのアドバイスにまず「かまえてしまう」ということも「あるわけだ」
今NHKのラジオで早稲田の同級生であった、野口がアナウンサーで「個性ってなんですか」ってな番組の司会をしているのを聞いた。
きょうのゲストはヤクルトスカウトの片岡さん、しゃべりかた、うまくはないが、投手の尾花(今ライオンズのコーチ)を発掘したときの、実際にあった話が興味あった。
尾花は、PL出身、だがPL時代は騒がれたいわゆるドラフト対象ではなかった、片岡さんが新日鉄堺に別件ででかけて、練習が終わったグラウンドで堺の監督と話していたら、夕闇せまるグラウンドで独りだけ走っている選手がいる。
「あれは誰か」と聞いたら、「あれはPLの尾花だよ」さらにそこの監督が言葉を続けて、「あれは野球が好きで、好きで、あんまり練習するので、みんなが困っている」と、どうしてかといえば「練習が終わって、みんなで、バスで帰ろうというのに集合時間にこない」「食事の時間でも走っている」と、で片岡さんはべつなときに、今度はピッチングを見に行く、尾花のブルペンでの投球をみていたらこういうことを感じた「普通ピッチャーはブルペンで投げていたりすると、時々、野手の練習に目をやって(まーお休みということでしょう)あるいは試合の様子をながめたり、するものなのだそうだ、ところがこの尾花のブルペンでの投球はほんとうに1球、1球ていねいに投げて練習に集中していた」で、ここから先がまたおもしろいのだが、当時のヤクルトの監督は広岡さんであった「広岡さんは、こういうような選手が大好きなので」「尾花のことを広岡さんなら、わかってくれるのではないか」と思って、広岡さんに話をあげたら、案の定、尾花を選んでくれた。
尾花と契約するとき「うちは(ヤクルト)はたいした契約金もだせないけれど、3年ぐらいしたら、給料あがる(ちゃんとれんしゅうしたら)」と言ったら、尾花練習、練習できっちり、そのとおりになった。
ここではスカウト片岡さんのエピソードだが、野球人片岡さんから見たら、「尾花が素直にアドバイスを聞き、かつ黙々と練習をやるタイプである」それを見出せたあるいは見出す際のヒントになったということがポイントであろう。
Coachingを受け入れる、ということを平たく言えば、この尾花のエピソードのとおりである。
聞く耳をもつあるいはもたない、聞いたことを「やらない」で、中学時代のプレイから抜け出せない、それでも昔の守備ならば、それで崩せた。
フラットを崩さなければならない、今はそれでは「だめ」。
ただし「こうやれ」ではなく「こうやったら、フラットを崩せる」のだから、そのアイデアを個人が納得しろ、と言うように選手に接している、意味では「まだ個人というものに信をおいてはいる」一挙手一足動までサッカーというもの、コーチのコマンドをかけられるものではない。シンクロナイズド・スイミングでは「ないのだから」
他方「へぼコーチのいうことを聞いてたら」「つぶされる」というときにひきあいにだされるのが「イチローと土井監督→仰木監督」の例だ。
土井はその昔のイチローを見て「古典」的ではないからと、そのフォームをもどせとした。そしてしたがわないイチローを「ほした」仰木監督は「結果よければええやんか」でイチローを使い、かくして、同じ恥(才能を見ぬけない)という恥でも、土井さんのそれは、大リーガーでも通じた「才能」を見ぬけなかった超ド級の恥、ということになる。
もっとも土井さんのことを笑えない。
土井さんがそうかどうかはしらない、だが仮に職業コーチで、イチローの才能を見ぬけなかったが、「その先も、まだコーチを続けなければならない」というときどうやって「信頼性というものを、リセットできるのだろうか?」それが私の問題意識である。
これはほとんど困難な気もする。
コーチの落とし穴、そこにもあるわけだ。
結論、杉並のボランチ、頭が悪い。
日本学園は1日の都民の日に、千葉の柏にでむいて、流通経済大柏と練習試合をした。
私は、1300から東久留米で行われた、国分寺対東久留米の練習試合を見に行った。
どこでスパイが見ているかわからないから?国分寺の背番号でたらめ。
だがしっかり情報はとった。
東久留米から所沢街道、大泉学園にぬけて、外環に乗る、三郷まで行って、常磐道柏インターで降りて流経柏とゲーム開始。
柏は4フラット、その前6人のプレスへの熱意ものすごく、またこちらのメンバー構成少しまちがったか、前半はほとんどペースとれなかった。
公式試合直前ゲームだがやってよかった。
選手は「なんで相川が協会直伝のフラットプラスプレス」を憎むのかわからないだろう。
先週も日本学園の下部チームが都立調布南にぼろぼろにやられた(むろん相手はフラット)ゲームを見ていたら、相手のひとりなどはまともにボールをキックもできない、のである、だから選手にちゃんとそう言った。ボールも蹴れなくても、フラットで、ごまかされるわけだが、そういう負け方だけは許せないから、明日「辞表もってこい」と。
ときにめちゃくちゃかもしれないが、コーチの個人的な趣味を口にしてもかまわないだろうと思う。
まさか国分寺は「ひいてはこないだろう」日本学園おしゃかにしてやるとばかり、攻撃してくると読んでいる、ただパスをある程度「試みる」か、ばか蹴りしてくるか、そこが読みきれない部分である。どちらでもよい、ようにのぞむだけのことだ。
国立にある桐朋グラウンド、車乗り入れ禁止、国立は美しい町で死んだ山口瞳が愛しただけのことはある。電車でいってもよいのだが、たまに電車で行くと、電車のなかで意識が散るというところがある。練習での準備は明日の下高井戸でほぼ終わり。あとはやるだけ。
相川さんの大脳も煮立ってきた。
(この項終わり)