2003年の成果

2003年10月06日(月)

今年のチームは、
新人戦、結果帝京についで、2位の国士舘に0-0、PK負け
関東大会、これは、次で負けた、久我山に1-1、PK負け
総体、帝京に負けた、駒沢と0-0、PK負け
そして、昨日
国分寺に1-1、PK負け
という珍記録をつくって、 解散ということになった。

選手は大泣きしていたが、コーチというか相川さんは、そうでもないというか珍しく「さばさばして、国立」をあとにした。
夜も、「予想される」「鬱の襲来」にそなえて「手近かにあった、ジンロを」がぶ呑みして眠ってしまった。
朝、「クソー」といいながら普通は目がさめるが、それもなく、「新チーム」どうしようかなと、けっこう集中して考えている、自分を発見している。

もとより逆流に逆らい、さおを「さす」人生である、こういうこともあるのだろう。

負けた夜のうちに書き上げたレポートを、参考に、なぜ「24時間もたたずに平静でいられるか」を説明したい。
このレポートは現実に試合を見ていたスタッフあてのものなので、「見ている」あるいは戦前から、いろいろ作戦的なことを情報として知っているということを前提に書いてある、
コーチング日記を読むひとは試合も見ていなければ、作戦についても知らないわけだから、●にその補足を書いた。

2003年10月05日(日)日本学園1-1都立国分寺@桐朋、国立、PK4-5

→誤算というか、読みがはずれたのは「まつたに」が相手に当られて、充分な活躍ができなかったことか、あと相川としては、「細野」のふできはある意味で「予想できたのに」細野を投入したことか?
●国分寺をやつける鍵は、戦前、こちらの「浅野」2年生、「松谷」1年生のトップにあるという考えであった、この2人のスピードをいかに、生かすかが相手のラインへとの勝負であったとする作戦である。浅野はたちあがり10分で、1ゴールゲット、かつほかにも切れ味のあるランとシュートを放った、しかし、松谷のほうが、たちあがりすぐに、いわゆる「腿かん」くらって、この日まったく期待はずれに終わった。「細野」1年生の解説はどういうことかといえば、戦前で評価がさがる一方で、その理由は、トップで、走りながら、ボールを受けて、トップが攻撃起点という、パスの流れを、作れないというものである、で、それがやはり「出た」というか、機能しなかったわけである。

→そこをもっとスタッフ全体としても、「考えておいたほうがよかった」例えば、この日の細野、=まったく細野起点で、というかトップ細野にボールがついても「ボールもどってしまう」エジムンドを見よだろう、何がすごいといって、ふりむいて、そこから「ボールがつながれる」というわけだ、そういう現象が「見られなかった」「のが」 後半のまずい攻撃ということであろう、だからひょっとして、細野ではなく(なぜならきょうの細野なら5回で5回ボールロストであった、ここはだれもが見とめる、)そうだとして、ではまったく不充分ながら「恭平」なら5回で1回、トップ起点のボールのつなぎ、とでもいうサッカーをやれたとしたら、国分寺むろん崩れたろう。

いいだかをトップにあげて、あさのをさげたのも、むろん苦肉の策だが「あくまでボールの流れ」を重視するのが、まだ完成せぬ、日本学園サッカーだからだ、いいだか→あさのと流れない、おぐち→あさのあるいは、ほそのと流れるようなボールの、走りがなかったわけだから、負けたわけではないが、まだ日本学園サッカーが「完成」していないのだと思った。それで、その責務は、次の代にたくされるわけだ。

●多分、相川が平静でいられるのは、この上の部分である「XXXXサッカー」がまだできていない、というところにあるのだろうと自己分析している、できていないからには、負けだろう、というか実際は、勝てないので、負けているわけではないのだがまー世評は同じことだ。世評は世評、おのれの考えは、おのれの考えであって、別にどうということもない、と思っている。

→何を言いたいかといえば、「その先に進めなかったが」「宗旨がえはしない」すくなくとも相川はそう思う、もう少し、「つないで攻撃したかった」という悔いが残るだけで、フラットを採用とか、もっと守備的にすればよかったとかそういう反省は「ない」
すこし、トップにつける頻度が多すぎた。ポジションチェンジは「なかった」わけだ。

例えば、小口がゴールまえに「行った」とかは「なかった」わけだプレッシャーのかかるゲームで「何を夢見ているのか」といわれそうだが、冷静に見れば「あさのを」「つっこませ」というサッカーであって、それでは驚きはなかった、だからもうすこし「ゆっくりした」サッカーをやって、その驚きを演出させたかった、再三、いいだかがオフサイドにかかかったが、コーチとしてはふちがみ「よりは」好もしく思った、なぜなら、「そのいいたか」の「動きも」ポジションチェンジなのだから。

●上気したのか?それとも重圧のかかるゲームでのスタミナがないのか?あるいは、松谷、細野というトップが、攻撃起点として機能しなかったからか、2トップのスピードを生かす、「から」といって、2トップをただただ「つっこませる」サッカーを想定して準備していたわけではない、あくまでも、ポジションチェンジにこだわったサッカーを「やりたかったわけだが」それが「できなかった」が「いいだか」という選手は「やろうとしていた」から評価し「おぐち」という3年生は結局「パス」を出すだけで終わってしまった、パスがでればいいではないですかと問われそうだが、「パス」を出そうとするだけで、そこにプレスがくるから、パスが「でない」のである。

→他方、守備も良く守ったといえばそうも言えるが、攻撃=ポジションチェンジするガッツは「なかった」それを惜しむ。ポジションチェンジを「する」ということが「勝負しにいく」ということだというのが自分の勝負感である、
守って、「ピーケー合戦に」もっていくという勝負感は「すくなくとも相川には」ないのだが「そこのところを」選手に浸透させられなかった、弱い人間の常で、「PKで勝てるかもしれない」という幻に「すがった」

● 実は、ここが、2年前から、気になっていたことで、「みんな」「好い子」のバックは、結局勝負をしないやつらというわけだ、中盤で、こちらのハーフにプレスがいって、そこで苦労しないなら、そのゲームは中盤を「ぬけていく」という言いかたで、要は、最終パスが「でる」ゲームになるし、ポジションチェンジをする、時間的余裕が出るわけである、ボールが「縦に走る」状態のなかで、「ポジションチェンジ」である、ボールを、横に、横に走らせて時間的余裕を得ても、そうして「ポジションチェンジ」をしても、結局は相手が「ついてくる」のがサッカーだから、そうういうことを目指してはいない、だから中盤でハーフが「理由はともあれ」「苦労している」なら、つまりいくら「中盤での、ランの走りだしを速くしても、苦労するなら、ラインからバックが「あがるしかない」か「ビスマルクみたいな」とられない=中盤で、勝つハーフがいれば、それまでだろう、というのがすくなくとも読売出身のサッカー人の基本的な態度だと思う。

● ではそうやってみたらカウンターをくらうじゃないですか?それはそうかもね、だから最後は、攻撃する勇気ということになるわけだ。選手も、コーチも。

→そういう意味で新チームを創出していくときも、やはりキーワードは「攻撃」だと自分は考える。

西村が守備だけでなく、攻撃にでて少し相手が「あわてた」そこを「中川原やら」「須田」が普段から「見せていれば」もっと組織にくみこんでいたわけだ、攻撃サッカーに執着するのはある意味で、もっとリスクを「わかっている」として、あえて「やる、サッカーだろうと」思う。小口の足元にセカンドボールがはいった、それを小口の「うしろから」「よこせ」(むろんバックパスではなく)というコール「が、なかった」というのが、2003年のチームであった。小口が小技におぼれる、ということも、むろん「ある」しかし要は、ラインの選手の「あがり」しか他に相川から考えて、小口の「もちすぎ」を「ちがうだろう」と直せる、方法はないように思える。

そう言う意味では「須田」が本当に「駄目であった」中川原も「駄目であった」だからこのまま、攻撃サッカーを「宗旨」にするなら、むろん、ラインからだれかが「あがる」しかしボランチなら、ボランチは残って、ラインの数が3人とか、4にんとかという、そういうアイデアを実現させていけば国分寺レベルは粉砕できるだろう、
すなわちどういったらよいのか都でベスト4でも8でも定着だろう。

2003年は終わった。
2004年にむけて、まずメンバーのおおよそのところを「どうするのかここらへんが「第1課題」その次は、もし相川の反省のしかたが正しいならば、「つなぎにでてくる」「ライン」が2004年の「テーマではないか」でてきて「さーどうする」であるが。
3人のラインから1人でてきたら、2人だから失敗したらこわい、というなら4人でもかまわないわけだ。で、ハーフが「もらう」当然縦を「見る」しかし数的に優位ではない、ならばそこで「小口」が遅くなる、ということを、2004年も、「くりかえすと」いうのは納得できない。小口のボールをストッパーでも誰でも、「バックパス」ではなくいわば中盤のオーバーラップパスとして「受ける」この現象は2003年には1回も見えなかったわけだ。

その他のことは別に「ない」
PK戦で負けたが、なぜか「中央大会で認知を受けた」というような、アイデアを相川印象でもった、地区大会で例えば都立山崎に「負けたりしても」東京の中央の話題にはならないが、中央大会で、都立国分寺と、「互角のゲーム」をやったということの評価はかならず2004年に「いきるだろう」、

●人生で失敗してひとは、意気消沈する、するが、「明日何する、やることが見えれば」それを「やるだけ」だろう。コーリン・パウエルが言っているそうだが「計画をたて、」「行動する」「行動の内容がわかれば」人間は楽観的になるのだ、それがエネルギーを産むのだ、と、まったくそのとおりで「自己否定」やら「悲観」はどういうわけか「行動には行かない」のである、楽観があって、行動するという理屈は正しいが、では「悲観」がかすかにあるときに、悲観が去るまで、沈静していると余計悲観にはいる、というのが真相だろう、したがって楽観があって行動なのだが、もうひとつ、「楽観」をえて、自らを駆動させるためにも「悲観」を捨てろ、ということだろう。

理由はともあれ、悲観を捨てろということだろう、グラウンドから立ち去るときに、キャプテンが折り目正しく「ありがとうございました」といってきたから「おうご苦労さん、泣いているやつがいるが、世界が終わったわけではないのだから、ぶっ叩いてもやめさせろ」と言っておいた、高校生は「じぶんたちには、泣くだけの、資格がある」とおもっているのかも知れないが、「それはちがう」のである。別にまだローカルのゲームで、もっと高いヒマラヤのトップがあるだろうに、というそういう意味で言っているのではなく、たとえ引退する高校生でも、翌日も、エネルギーを出して、生きてもらいたいからだ。
(この項終わり)