クリニック(#19)

2005年4月21日(木) 練習、1530-1700@栄光

5対2:本日のテーマ、バックのあいだをとおすスルーパスが第1パス、選手は、パスゴー、受けた選手は言い方で言えば、トリッキーな逆パスを第2パスで、ワンツー

シューテイングのかたちで「ダブルオーバーラップ」

次ぎのポイントがよくない
1) 最初のパッサ―が最初のオーバーラッパーを使うときの「ひきつけかた」がへたである。無理もないのだが、半身で、相手からボールをかくしながら、といういちばんのポイントがまずい

2) 最初のオーバーラッパーが「インサイドへカット」ということがあやふや

これはゲームでもすぐ悪く表れて、「要は、センスなし」なのだが、たいら「あがって」「相手に見られているとき、「相手からはなれようとはしない」というまったく、ぼけた現象にあらわれる。
サッカーの原点であろう、あいてに見られていたら、あいてから「はなれるようにランする」しかし相手がついてくれば、別なフリーのものをさがす、それだけだ。

先回のレポートで酷評したように「たいら」のどこをたたいても「センス」のかけらも、感じられないということを、グラウンドで、はっきりさせたわけですよ、誤解してはいけないのは、そのたいらでも「失敗」くりかえして、で、サッカーをやっていてよいというのが栄光における部活なわけ、だが、こういう選手を先発に出したりしてはいけないということもまた柴野先生、わからなければならない、だって、そのことで、チームはあっというまに崩壊してしまうじゃないですか?そこに神経質にならなくてはいけないわけです。

わかりますか?
まずアップダウンしない。(教えたのに)
パスをさがさないで、ドリブルしてしまう(教えたのに)
1対1ですぐ、ボールみせて、しまう(教えたのに)
あがっていって、さかいに見られているのに、インサイドカットしない(きょう教えた))

こうやって実は少しずつ、テーマそのものはアップしてきている、わかるのだが、その吸収の程度は当然、栄光だ「から」遅い、ということ、わかっていてやっているのですが、テーマが選手をしばるツールになっていくわけです。しかし、選手は「自由にやれともいわれている」
だからこれからは「自由」ということがただの「場当たり、ボールがきたらなんとかしてみる」というのではなく、「そこは、こうやる」というしばり、のなかでの「自由になっていくわけです」

例えば、みうらが速攻で、1対1を突破していった。えっつ1対1やっちゃいけないんじゃないですか?とおもうひとがいるかもしれない、それはそうです、だから「たいら」「ごとき」が1対1やったら「ふざけんな」という話に当然なるわけです、だって事実「なにも起きない」しかし長い経験で三浦がそうした場面では、1対1むろんOKです。しかしまた別な場面では、ありさわであったあか?エリア3で、スルーパスをうけようとしている「みうら」がいる、だから当然「ノー」といっている、コーチのノーを選手が信用しなければ、そのコーチはやめなければならない、しかし仔細に観察してみると、三浦は、自分の間違いを感じたようである、そこには余人ではわからない、サッカー専門家の「眼力」がなくてはならない。

しかし他方「なかた」は多分スピードがないからだろう、やってはいけない「さがってきてのボール受け」をしてしまっている、ただし一度に何人もの選手の「まちがい」を修正はできない、だいいち、なかだにロングボールを出すほうもPoorでもある、こうやってサッカーというのは、たったひとつのことだけを「いいはっていても」進歩はでてこないわけです、しかし基本は常に「出すやつ」と「受けるやつ」の双方を、観察していかなけれえばならないということになるわけです。

またボールがもてると一般的に、思われている「あおき」だ「ありざわ」だも、自分から言えば「とにかく遅い」判断、ボールのスピード(ロング)ポジションのとりかた、(ここはまだあまり教えられていないとはいえ)ただやはり栄光の子は理解力はあって、例えば「ささき」が、第3トップとしてスペースへ行こうとしてみたりというような現象は、けっして、こちらの思い込みではなくて、現に「目に見える」わけです、そうやって、目に見えたものだけが、実際の試合で通用するものであって、そういう露出しているものを(それがどれほど、まだレベル低くても)問題にしていかないといけないわけです。

例えば「さいとう」が少し伸張してきているとたびたび言うわけです「どうしてなのか?」観察してみたら「キック」」がまともになってきた、と思いました、パスではなくて、だからからだから、でてくる雰囲気はよいわけです、しかしだから、レギュラーとれるかどうかという問題と混同はしてはいけません。

そうしたら仮にさいとうを試合でださない、としてそこで「初めて」さいとうに例えばコーチのわたしが「語りかける」機がやってきた、ということになるわけです、あるいは、少しあざといかもしれない「が」みんなの前で「さいとう」を「ほめる」いやそう言う手もつかうわけです。
でもそこで正直にいう「うまくなったが、まだ使えないって」当然その理由を「さいとうが」時間かけてつぶしてきてくれる、ことを、「希望」するからです。

そうすると今はまだ選手がかってに、チームを組んでもよいということになっています。
これは最後までそうでも別にかまわない、かまわないが、「伸張してきて」やる気がでてきた、さいとう、と、たとえば、身体障害者みたいな奴と組ませたら、結局能率はあがらない、「この考察」を今後すすめていかないと、いけないわけです。

そこで、ここに手をいれるためにやっとこさ、選手にこういうことを言い始めたわけです。
グラウンドの上(白線のなか)では「さん」をつけるな。いや時間確かにかかりますね。
日学だと最初の1週間です。
でもきょうはじめて「やえがし」が練習中笑っている顔を見た。
その前までいったいこいつはなんでサッカーやっているんだっていういんしょうで、今もほんとうの意味で「逆とリ」はできない、しかしボールを扱える、ボールは扱わなければいけないのだ、逆をとらなければ、サッカーにはならないのだ、そういうことがわかってきたように思えました。

それから試合中ヘッドをものすごいいきおいでやったわけですが、そのときも「以前なら、脳天でやっていた」のがひたいに、びたっとあててきたわけです。それも「驚きでしょう」でもまだやえがしには「声」はかけないでしょうね、まだはやいでしょう。

さいとうには声かけて、やえがしには、声かけない、差別ですが、それは成長曲線上の「いずこにいるのか?」というところからでてきているだけのはなしです。
だんだん「下位グループにいるものが」そこを脱け出してきていて、で、その次に、「自分がうまい」とおもっているやつらをやつけにかかるわけですがどうしてかわかりますか?

だって、見てくれで言えば、例えば、このあいだまでの「さいとう」どう考えても「ほめられないでしょう」だから、たとえば、さとうなんか、いくらでも「てめーこのやろう」っていうプレイを今もしてしまうわけだが、まだ幼稚なかれらは「かりにてめーこのやろう」って「おれが言われるのかい?」と思うわけですよ、それはそうでしょう。おれをどなるまえに、「さいとうだろう」ト思うではないですか?いちむらの欠点すぐわかります、しかし、いちむらをどなりあげる前に、「あおの」をなんとかしないとならない、あるいはおぬきを、そういう方法論でしょ
う。

(記録:相川)