クリニック(#25)
2005年5月08日(日) 練習試合@栄光 対横須賀総合、7?8-0
まったくのところ、1年前に栄光を見て感じたことと、同じことを、横須賀の高校生に感じた。
人の人生、時間はやまほどある、無為に過ごす時間もあろうしかし限られた人生、できれば、無駄に過ごし
たくない、っていうのが自分の考えだが、こいつ等はサッカーをやっているのではなく、時間をつぶしている
のである。で、そういうチームがまだまだ他にいくらでもある(から)栄光サッカーも棄てたもんではない、という
わけだ。
結論からいえば、最後の対、神大こてんぱんに「やられた」その試合をどう評価するか?をまず考えたほう
がよい。見ていた押本(17期)あたりが、推定するに「相川さん、あれじゃだめです」というか?いやむろん言
う自由はある。
急いで結論言えば、神大、こちらの手持ちの別チームだしたら、楽勝っていう相手である。
それって、相川のビッグマウスですか?と思うのはよいが、ほんとうである。
栄光その程度の神大だが、ぼこられた。
選手は落胆しているかも知れないが、相川は、違うことを考える。
だが、なぜ自分の手持ちのよそのチームであったら、「こちらが勝つ」っていうようなことをまずいうか?といえ
ば「だから、今の高校、横須賀総合みたいな、ぼけチームに勝つ」のは、コスト的に、ほとんどゼロコストだ
が、ちょっと、手が入っている神大程度のチームでも、それに勝つために、あたりまえだがコスト、かかるよ」
という、そういうことになる。
だからコストかけられない「なら」神大と次ぎやっても「勝てない」
コストってなんですか?
選手が支払う、時間かもしれない、コーチに対する謝礼かもしれない、全部含めてである。
それだけのことだ。
だから栄光生が試合のあと「どう思っているかはわからないが」相川のほうは、「勝てというなら、(コストをかけ
て)勝ってやることなど簡単だが」コストぬきにであったら、次神大とやって、0-3あるいは1―4までもってい
けるかな、である。
そんなことになにか意味はありますが「負けは、負けじゃないですか」と言ってきたら、じゃー「おまえも、コス
ト負担しろ」っていうだけじゃないか、人生は。
そこがどうしてもわからないOBや親がいるだろうねである。
柴野先生と、練習試合というものを、「どうやって活用していくのか」「目的は、ひとりでも多くの選手を」「その
気にさせることである」そういうことを試合前に話していた。
その気になって、で、「いけないことはいけない(プレイのやりかた)」を「試合にでることなど、どうでもよいや」
でなくて「熱中している、高校生に」「言い方としては、てめーばかやろうではなくて」「おまえは、こういうとこ
ろが、まだ不足しているんだ、いやできないのはいいから、この試合でやってみろ」というように、そそのか
す、結果は例により問わない、ただあきらかに「役割」とでもいうものに選手が集中して、彼が、試合をやれ
れば、部活動としては、それでOKということである。
熱中していない高校生にわかりやすくいえば「おまえからサッカーとりあげるぞ」といったところで、高校生い
たくも痒くもない「ああ、やめてやらー」である。だからどうしても、まず「サッカーを好きになってもらわなけれ
ばならない」そのうえで「指導する側」は、例えば、フォワードの、最優先メンバーは「田中」「木村」田中の
かわりに、「佐藤」を「いれる」というような、プログラムをはやめに策定しておかなければならないこと。
そして、フォワードの第3番「佐藤」は、例えば「あがりめ」にも使えるかもしれない「専門的に言えば、1人の
選手にダブルファンクションを期待する、というフレキシビリテーも「もたなければならない」ということなどであ
る(コーチが、そういう思考の柔軟性をもつという意味である)
そういう、いわば「チーム創り」のノウハウ、あるいはスキルを柴野先生にレクチャし始めたところである、おい
おい相川もう少しはやくからそれやれよって言ってくれる「ひとがいたら」そのひとは「サッカー知っているひ
とだから」おおいにチーム創りのプロセスのなかで、話しをしたいひとである。
自分はトルシェタイプのコーチではない。
トルシェは伝え聞くところ、(フランス人だし)強烈な自我のもちぬしで、自分が
一番っていうやつであった。むろんトルシェの知らないところで、チームやら、選手に外部のものが介入して
きたら、なぐりかからんばかりにリアクトするやつである。
自分はそうではなくて、
まともにサッカーをやっている、考えている、ひとたちとなら「いくらでも」「会話して」そのひとに「自分の言葉
をぶつけて」「相川がただしいかどうか、リトマス試験紙」として「使いたいし」というやつである。
チームはそうやって創られていくのである。
ただ評論家は不要。
「おまえが(ある選手について)そう思っているなら」「管轄とか、指揮権の図式」とかそういうことなど、どうで
もいいから「言ってやれ」っていうタイプである。
みんな(大人が)そうやって、よってたかって、選手に介入していく、それが理想だ。
さて、そうやって、チームを構成する選手をなるたけ多く、意識つけさせることが第一である。そのことと部活
動は今の所「別である」
つまり方法論的に言えば、まず「チーム創り」のシナリオをおおよそ、定めて行く、その部分が「うまく」機能
し出したら、このレポートはストレートなものだからありていにいえば「運動能力失調者」「精神不定者」「どう
考えても、スポーツ続かないもの」そういう生徒を含む「部活動」をうまくまわしていく作業に進むべきであろ
う。その逆は「ない」
で、この日の対横須賀、は相手が弱かったから、誰が出ても、勝ったであろう、そういう意味で、先発とか交
代がだれであったか、とたんに無視である、
一応次ぎの、対神大戦を語るために、かいてはおくが、
●くにやす ●いちむら ●くずはら
●あおき ●あり
●さかい ●なりい ●いのうえ
●いまご ●みうら
ささきのかわりに、なりいがあがりめである、よかったが本当の意味での「テスト」にはならなかった。
で、この面子で大勝して、午後の対神大の面子だが、
●いちむら ●おぬき ●でぐち
●あり ●なかた
●高1 ●なりい ●いのうえ
●いまご ●ふじた
むろんこれも柴野先生の自由である(ということを重ねて強調した)がただ少しわからないところがある。
だれ
か「まったくいままでと違う選手をいれて、トライするのは大いにけっこう」だが
例えば、この対神大で初めて、先発でてきたのは、
おぬき、左ストッパーとしての「でぐち」名前忘れたが右のウイングハーフ、トップのふじた、である。
だれが良いか悪いかという議論はない。
ただこういうときに、コーチが腐心するのは「ハーフの、構成」「ハーフで守備でも、攻撃でも相手に勝れる
のか?」というそういうテーマである、
フォワードはだれをいれようが、そこにボールがいかないと活躍はできないのだから、すごいやつをいれたか
らといって「ハーフが中盤を支配しなければ」その仮定のすごいやつも活躍できないのが、サッカーだから。
で、まず「おぬき」から。
相川の感想、柴野先生が実際そう思ったかどうかではなくて、専門家からしたら「こういうように、おぬきを出
す」とそれが意味するのは「おぬき」に引導渡した、と、そういう意味合いになる、そしてやはり「そうなった」
というように意地悪くか、現実的にか、見るわけだ。
だって、べつにおぬきだけではないけれど、おぬきの不全でとにかくあっというまに0-2でゲームはこわれ
てしまった、「サッカー、スポーツの持つ冷徹な機転」
おぬき、好人物である。
部活動しっかり楽しんでいる?いいじゃないですか。
しかしいかなる意味でも「闘えない」で、それは最初からわかっている。コーチがわかっていることを、選手に
も「わからせる」そのために練習試合を「ひとつ」「おぬきに」やってしまうという、そういう意味である、そういう
こと「も」あるから「おぬき」を先発で出してもそのことは、かまわない。
ただ、自分なら、やはり神大戦、他の、選手、チームのために、役に立たせたいから、ここで「おぬき」は出
さないわな、である。
次ぎは「あり」である、結果として、「あり」にも引導わたしかねない、流れとなった。
けっしてありだけが悪いのではない、だが結果ありの「ひ弱さ」ありの「他の選手をひきつれて、闘う」というも
ともとないのだが、「なくてはならない」資質がやはり「なかった」ということが、顕著になった。
次ぎは「いちむら」これも、めぐまれた身体なのだが「精神的には」バックの資質をもっていない。
次ぎは「でぐち」相川から言わせたら、でぐちのほうが守備ハーフとしてトライしたい選手になる「なかた」は
使えない(ということが、3点目、4点目でよくわかる)どうしてかといえば、守備ができない、攻撃のなかで、
ボールをもらわない、これでは無理。
次ぎは、両ウイングいずれも「アウト」
結局この大敗した試合
で勝機があっただけ、実はコーチは楽天的になるのだが、今後が最後まで闘ったということがひとつ。でぐ
ちが序列のだいぶうえにくるだろうということ(ポジションはまだ不明だが)、B戦を見ていて「あさかわ」が多分
でてくるだろう、と感じたこと、この3点だけでも、でてきたことが、良かったことであって、今までの栄光には
なかったことである、急いで羅列するが
、
あおきのラインは「ない」むしろトップにためすというアイデアはある。ただし時間はない。
いまごは当選だが、みうらは「なにがいいの?」っていうようにしか見えない、柴野先生の心配からしたら、で
はみうらのかわりに「ふじた」っていうのが一応仮説ということでよくわかるが?どうして「あおき」ではないの?
つまりそれもまた「やってみて、当否わかることだが」コーチの発想の柔軟性だろう、という問題である。
日学を韓国につれていったとき、韓国チャンピオンの高校がやはり4-6でやってきたことがある、4-6はス
タミナがあるあいだは、それを押さえるのはなかなかむずかしい、その試合、2-1で勝ったのだがそれも前
半、相手の4-6にマンマークでこちらも相手にあわせて守った「からである」この神大、もしまた相手と明日
やったら、当然栄光も3でもいいから、7に6人マークさせて、なんとかゲームをこわさない、発想で行く、そし
たら、多分前半0-0だろうしかしそうしていると試合終わるまで、こちらのサッカーも多分できない、だから
せいぜい最後0-0というつまらないことになる。
だが総体にむけて、良いゲームを経験はした。
さて、ほされた「ささき」が交代してでてきたが「ささきのでき」がどうかはともかくささき「けんめい」に闘ったよ
うな気がするのだがどうだろうか?相川だけの錯覚か?もし相川がただしいとしたら、「そうやって」「栄光生
といえども、やり方しだいで熱くさせていけるわけではないのだろうか?」「「そのささやかな、実例であろう」。
大人は結果として子供たちにより豊かな存在になってもらうべく「だましたり、策謀したりするのである」しかし
仮定する、方向性は、むろんよかれというものであるそういうものでなければ、なるまい。
(この項終り)
(記録:相川)